て、そうした外貌的のものであって、理知的なものであって、内容というものは一向ありはしない、だからいくらそれがうまく出来ましたところで芸術の方には入らない。そこでこれを芝居などに致しましても、私は残念ながら見ないのでありますが、芸術的生命を持ったという最近の俳優といえばおそらく団十郎だろうと思うのであります。これは団十郎の写真を見ましても、団十郎の書いた字を見ましてもかなり芸術的なものが表現されております。それで彼にして初めて芸術的であったといい得ると思うのであります。それもどの辺までの芸術家であったか、それは私は見ないのでありますからわかりませぬが、この芸術という的《まと》に致しましても、ここにたくさんの層があります。こういうふうに幾千とも幾万ともいえない層があるのでございます。そこで真ん中に中心があります。ここに当たるところの芸術が、ここになると的《てき》とはいわない、芸術といってよいと思います。ここに至ると、推古仏のものとか、あるいは法隆寺の仏画に表われている壁画とか、そういうようなもっとも調子の高いものを心的としてよいと思うのであります。そういうものでありますから芸術的なものはたくさん段があると思います。そこでここに至って初めて真の芸術であって、ここから少し外れるともう芸術的になってしまう。ここに例えば推古仏があるとしましたら、法隆寺あたりがここにある。周文あたりがこんなところにいる。蕪村とか、応挙とか、こんなところにまごまごしているというようなことになって、ここまでなかなかいかない。つまりこれは芸術的だから芸術品としてさしつかえありませぬ。そこでこの頃例えば、お差し障りがあったら失礼いたしますが院展なら院展、帝展なら帝展に絵が出ます。あの作者を仮に個人的にどこかで人に紹介します場合に、なんといいますかというと、これは院展に出品しているとか、帝展の特選になっているとか、審査員であるとか、芸術家であるとかいって紹介している。紹介された人も芸術家扱いしている。それはしかし芸術家であって、芸術を生む人とは必ずしもかぎらない。帝展とか、院展とか二科展に出品するところの多くの絵描きを芸術家だという。この人はなにしている人かと一言にしていう時に芸術家だといっている。それなら芸術家という人が芸術を生むかというと、それは芸術家と称する人であって、生むことがあるかもわからぬとい
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