長々鑑賞家の懐に抱かれ、敬愛されてきているのである。だから眼利きの欲望として、再びかようなものを作る人が出て欲しいとの心情切々たるもののおのずから湧き起こることは、私にも充分認識出来得るのである。
 さて、作家よ茶道を知れ、茶家の指導を受けよ……と焦《じ》れったそうに警鐘を乱打しておられる一幕芝居、果たして警鐘価値ありて、その希望通り現実的に効果が見られるものであろうか、あるいはそうやすやすと容れられるものではないという結果に終わるものであろうか、それを私は一応検討してみる要でありとするものである。しかし、松永氏の言葉は、松永氏の創意的に思いつかれた新しい言葉ではないのであって、由来いわゆるお茶人のよく口にしてきたものなのである。従って誰しもが前々よりややもするといいたかった言葉であって、すでにすでに平凡化し、黴《かび》が生え、今さらのごとくそれをいうと野暮に聞こえるほどのものである。それをご多分に漏れず氏が繰り返したという一幕である。
 それでも……作家よと呼ばれた作家に感じ入る者あって、ポンと膝打って奮い立つ者ありとすれば、これは大したことにならんともかぎらないのであるが、しかし、
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