作人は一人もいないのである。豊太閤が大茶会をやったような時代の空気は今の社会には求められないのである。昔の物は昔の空気が生んだのだ。昔の社会がそうさせたのだと観念すべきではないか。醜い茶碗以外になにも生まれぬ今日の社会は、社会そのものが醜いことになっているのだ。その醜い社会でなんで美しい茶碗が生まれ出よう。それを付焼刃してでもと、無理注文いう茶家の指導で茶碗が生まれるなど考えることはこの上もない向こう見ずである。もし茶家の指導で茶碗が生まれるとすれば、茶の中に代々育つ京の楽《らく》家は、代々茶碗を生んでいなければならない理屈になる。一人ぐらいから以後は、吾人のもって喜ぶに足るような茶碗は生まれていないではないか。吉左衛門《きちざえもん》どころではない不吉左衛門ばかり続いているのはどうしたことか。茶の中に代々育っている茶碗の家元にして、だんだんとその作格の社会風潮とともに劣ってゆくことはいかんとも致し方のない現実であって、例外の天才を迎えないかぎりどうしようもないことなのである。徳川末期に良寛和尚が生まれたような奇跡の事象が生ぜぬかぎり、今を昔に返すことはむずかしい。
 かつて御殿山氏は、自邸に窯を築き陶人を招き、所蔵の名器を展示し、数年に渉り風雅陶の再現を試みたのであったが、吾人の見るところではぜんぜん失敗に終わってしまったのである。これは鈍翁の考え方に最初から真実が欠けており、従って不純に出発しており、所詮浅薄の誹りを免がれない挙措であったのである。かような次第にして、そこに芸術の生まれようはずのないことは、論議の余地がないのである。況や、陶工を駆使して大業を成しとげんとなすがごときは、滑稽といわざるを得ない。このような失態を目前に見ながら、またぞろ人もあろうに、御殿山氏の陶工を招いて、青山氏が自邸に築窯を試みたということ、物の理解のない仕打ちもここまで来てはなんと評する言葉もない始末である。両者とも数多《あまた》美術品は蒐《あつ》めてみても、美の魂とかかわりなくつき合ってきた者というものは、真にみじめなもので、御殿山氏といい、青山翁といい、俺が俺がでうるさいまでの指導をやってみたことであろうが、なにが出来るものではなかったのである。
 その次に剽軽《ひょうきん》者として、両者の失敗をつぶさに見て取っているにもかかわらず、しからば乃公《だいこう》がと、またまた現わ
前へ 次へ
全10ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
北大路 魯山人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング