ん跡形もなく異なっているのである。今さらちょっとした思いつきぐらいで急に改変出来るものではないのである。付焼刃の効果は望み難いのである。これが少しも親切者に分っていないところから、図らず松永氏の失言も生まれれば、勘違いも起こってくるのである。蓋し人生未熟の致すところから生まれる親切かも知れない。その未熟者が、いたずらに古来伝えられるところの利休の十職というものをもって、今の十職と比し、とやかく差し出口することは、身のほど知らずの識見といえばいえるのである。あえて十職にかぎらず、何職人であろうとも二百年も三百年も経過した昔に遡《さかのぼ》り、腕が違うの、心得が不純だの、情熱が足りないの、魂が入っていないのといわれてみたとて、いわれる方の今の作人では一体全体なんのことやら皆目掴みようも判じようもなく、ただ相手の顔を打ち眺めている以外挨拶のしようにも困るわけであろう。
それを少しも知らない親切者は、ただもう今の作人と作品を息はずませて、もどかしがっているなどは、これまた第三者から見てはナンセンスであって、もともと中途半端な職人をいよいよ中途半端に拵え上げてしまうのが落ちである。いらぬお世話といえばこれくらいいらぬお世話はないかも知れない。この節の語でいえば、干渉する資格なき者の不当干渉である。干渉の効果に深く考えおよばない不当干渉である。見通しの明白でない干渉、相手の器量に無頓着な干渉、まったく閑人《ひまじん》にかかっちゃかなわない……と、いいたいところである。今の陶器職人なんて筆者の口からきっぱり決めてかかることは、いささかはばかり多いが、実はまことにたわいもない存在なのである。名茶碗の見どころ、約束など講釈してみたところで、職人の実生活となんのかかわりもないことなのである。釜師、庭師、竹切りと、次々親切者はそれぞれの講釈はしてみたかろうが、所詮かいないことである。それこそ火を見るより明らかといえよう。野暮なおせっかいと心ある者は失笑するばかりである。
茶を弁えたる者からいえば、今の茶碗では茶が飲めないと歎《なげ》く……が、それは仕方のないことなのである。あえて茶碗にかぎるのではない。なにからなにまでみなその類ではないか、みじめなものばかりの現世である。なまなか昔を知ったからとて、今に望むのはまったく無理な注文である。日本中探し廻ったとて昔三百年前に見たような茶碗の
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