は、大方《おおかた》とびきり値段が高い。美味さの点をひと口にいえば、もちろん、養殖うなぎより天然うなぎの方が美味である。そのいわれは、季節、産地、河川によって生ずる。
「何月頃はどこそこの川のがよい」「何月頃はどこそこの海だ」というように、季節や場所によって、その美味《うま》さが説明される。このことはうなぎの住んでいる海底なり、餌《えさ》なりがかわるからなのであって、うなぎは絶えずカンをはたらかし、餌を追って移動しているようだ。
 彼らの本能的な嗅覚《きゅうかく》は、常に好餌《こうじ》のある場所を嗅《か》ぎ当てる。好餌を発見すると、得たりとばかりごっそり移動し、食欲を満足させる。彼らが最も好む餌を充分に食っている時が、我々がうなぎを食って一番美味いと感ずる時で、この点はうなぎにかぎらず、あらゆるものについても同様に解明できよう。
 例えば、つばめだってそうだ。世間では相当のインテリでさえ、つばめの移動を「寒さからのがれるために暖地へおもむく」と子どもたちに教えているようだが、それは少々誤りである。事実は、彼らの露命《ろめい》をつなぐ食糧、すなわち、昆虫がいなくなるからであって、つばめにしてみれば、食を得るための移動なのである。南へ行かねば彼らのくらしがたたない。自己保存のために餌を求めて移動することは、つばめのみならず、動物の本能といってよいだろう。うなぎの移動も自然の理法である。
 ところで、あのひょろ長い、無心(?)の魚どもが、住みなれた河川の餌を食いつくしてしまうと、次へ引越しを開始する。海底の餌がある間はそこに留まっているが、食べつくしてしまうと、ふたたび他へ移行する。六郷《ろくごう》川がよいとか、横浜|本牧《ほんもく》がよいとかいうのは、以上の理由によるもので、どこそこのうなぎというものも、移動先の好餌のあるところを指すわけだ。
 養殖うなぎのように餌をやって育てたものでも、土地や池によって非常な差異が生じている。つくられたものでさえ差異が生じるというのは、一に水のせいもあるし、海から入り込む潮の関係も考えられる。が、なんといっても問題なのは飼料である。飼料によって、うなぎの質に良否の差異が生じて来る。養殖うなぎでも適餌《てきじ》をやれば美味いうなぎになるだろう。だが、うなぎ養殖者は、とかく経済面のみ考えて、できるだけ安価な餌で太らせようとばかり考え、いき
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