河豚食わぬ非常識
北大路魯山人
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)古諺《こげん》
−−
ふぐを恐ろしがって食わぬ者は、「ふぐは食いたし命は惜しし」の古諺《こげん》に引っかかって味覚上とんだ損失をしている。その論拠の価値をきわめもせずに、うかうか古諺に釣り込まれ惜しくも無知的判断から、いやいや常識的判断から震え上がりその実、常識を失っている。
これらにむかってわれわれが冬季常食する天下唯一の美味、摩訶《まか》不思議の絶味であるふぐの料理が、いささかの危険性なき事実を諄々《じゅんじゅん》力説してみても、その確実を容易に信じようとはしない。いわゆる先入主に囚《とら》われて頑として動こうとしない。
ふぐというもの、いかんせん人命を奪う毒素があり、例えば十中の三位は確実に中毒しまったく命にかかわると決まっているときにこそ「ふぐは食いたし命は惜しし」が岐路に立って迷うひとのために、時に善き教訓となり、あやうくひとの生命を守り得る寸鉄のはたらきと……ならんでもないが、このごろのようにふぐの安全料理が確立して、まったく危険が取り除かれた時においては、「ふぐは食いたし命は惜しし」は、寸鉄としての価値を失うばかりか、無益にひとを恐怖さすところの戯言にしか当たらない。しかのみならず、ひとの口福を拘束する余計な失言であるともいい得られる。
誰がいったか、いつどんな時代に出来た諷刺《ふうし》だか判明しない。「ふぐは食いたし命は惜しし」にわけもなく囚《とりこ》になって、それがためにかえって目前の体験実際が物語る安全を信じられないということは不甲斐ないばかりか、非常識でもあり、あまりにも迂遠《うえん》なこととして恥ずかしい。飛行機に乗ることが冒険である……これは肯定出来得る。ぜひを顧みるいとまもないほどの急用がないかぎり、いたずらに飛行することは決して当を得た常識とは認め難い。
しかし今日のふぐ料理は絶対安全といって差し支えないまでの成績が挙がっている。この時安心して天下唯一の美味に親しんでみることは決して徒事ではないと思われるのである。なんでもかでも、海から山から捕えて食べ物となす人間としてのあたりまえの行事といえよう。それもたいやはものうまさ、うなぎやてんぷらのうまさ、このわたやからすみのうまさ、あゆやあなごのうまさ、まつたけやしめじのうまさ、うどやぜんまいのうまさ、そばやそうめんのうまさ、すっぽんや山椒魚のうまさ、若狭の一《ひ》と塩、石狩の新巻、あるいは燕巣《えんそう》、あるいは銀耳、鵞鳥《がちょう》の肝、キャビア、まあそんなもののうまさに似た程度のうまさであるならば、わたしはあえてがたがたするひとびとにわざわざ笞《むち》打ってまでふぐの提灯《ちょうちん》持ちなんかしやしない。ふぐのうまさというものは実際絶対的のものだ。ふぐの代用になる美食はわたしの知るかぎりこの世の中にはない。
わたしはひとがなんと思おうとかまわぬ気で告白するが、今日わたしほど美食に体験を持っている人間は世間にほとんどない。朝から晩まで、何十年来片時も欠かさず美食の実験に浸っている。まったくわたしのようなものはまずないと信じられる。この点では僭越《せんえつ》ながら世上広しといえども、自分は美食家として唯一とはいわないが稀有《けう》の存在であると信じている。もとよりそれが善事とも悪事とも思わないこと、もちろんだ。
偉いこととも思わねば、馬鹿な所業だとも思わぬ。ただそういうふうに生まれ合わしてきただけだと思っているまでではあるが。とにかく、誰がなんといっても美食没頭の体験においては人後に落ちない自信を有している。従って、あらゆる美食を尽くしていると告白するに躊躇《ちゅうちょ》しない。この日夜飽くなき美食何十年の実際生活を基本として至公至平に判断するとき、ふぐは絶味も絶味、他の何物にも処《ところ》を異にすると断言してはばからないのである。
由来毒をもって鳴るこのふぐなるものも料理に法を得ればなんら危惧《きぐ》なくして、口福を満たされることは前申すとおりだ。しかも、このごろのように下関から飛行機そのほかで自由に取り寄せられ、あるいは下関そのままのふぐ料理屋が東京に少なからず散在する際だから、この美食恵沢に未だ出合わない薄幸者は一生の不覚を悔に残さぬよう、翻然なにをおいてもまずふぐ料理の美味を試むべきである。そして、その飽喫から得た自覚を振りかざして初めて美食美味を語るべきだ。
下関人の話によれば下関、馬関《ばかん》、広島、別府方面におけるふぐの商い高は年々六十万円を下らないと誇る。これを話半分にして三十万円のふぐが年々ひとの口に入るわけだ。
それが一人前最高の五円当たりにして六万人分であるから一人前一円くらいから商う料理店などを加えて口数
次へ
全2ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
北大路 魯山人 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング