、もともと宿命的に決定されているものだ。いたずらに死に恐怖を感ずるのは、常識至らずして、未だ人生を悟らないからではないか。
 さて、このふぐという奴《やつ》、猛毒魚だというので、人を撃ち、人を恐れ戦《おのの》かしめているが、それがためにふぐの存在は、古来広く鳴り響き、人の好奇心も動かされている。しかし、人間の知能の前には毒魚も征服されてしまった。
 人間はふぐの有毒部分を取り除き、天下の美味を誇る部分をのみ、危惧《きぐ》なく舌に運ぶことを発見したのだ。東京を一例に挙げてみても、今やふぐは味覚の王者として君臨し、群魚の美味など、ものの数でなからしめた。ためにふぐ料理専門の料理店は頓《とみ》に増加し、社用族によって占領されている形である。関西ならば、サラリーマンも常連も軒先で楽しみ得るが、東京はお手軽にいかない怨《うら》みがある。下関《しものせき》から運ばれるふぐは、東京における最高位の魚価をもっている。
 この価格も一流料理屋では、もとより問題ではない。のれんを誇った料理の老舗《しにせ》も、「ふぐは扱いません」などとはいっておられず、我も我もとふぐ料理の看板を上げつつあるのが、きょうこのごろの料理屋風景である。しかし、私はこの実情を憂《うれ》うるものではない。否《いな》、むしろ推奨したいひとりである。
 従来は、無知なるが故《ゆえ》に恐れ、無知なるが故に恵まれず、無知なるが故に斃《たお》れ、不見識にもこの毒魚を征服する道を知らず、この海産、日本周辺に充満する天下の美味を顧《かえり》みなかったのである。今もって無知なる当局の取締方針など、このまま無責任に放置せず、あり余るこの魚族を有毒との理由から、むやみと放棄し来《きた》った過去の無定見《むていけん》を反省し、さらにさらに研究して、ふぐの存在を充分有意義ならしめたいと私は望んでいる。
 ふぐは果して毒魚だろうか。中毒する恐れがあるかないか。ふぐを料理し、好んで食った私の経験からすると、ふぐには決して中毒しないといいたい。
 今を去る十五、六年前かと思うが、確か「大阪毎日新聞」に次のような有益な記事が掲載されていた。それを切り抜いて、ご紹介する。九州帝大医学部福田得志博士が中心になり、過去七年間、この問題を検討した結果である。
 以下は同博士の話。
「私は過去七年間、河豚《ふぐ》毒の問題を再検討して、次の毒力表を得た。

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