まい、食指が動かない。ここに至って、ふぐの味の断然たるものが自覚されてくる。しかも、ふぐの味は、山におけるわらびのようで、その美味さは表現し難《がた》い、というふぐにも、もちろん美味い不味《まず》いがいろいろあるが、私のいっているのは、いわゆる下関《しものせき》のふぐの上等品のことである。いやふぐそのものである。
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ふぐ汁や鯛《たい》もあるのに無分別《むふんべつ》
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 ふぐでなくても、無知な人間は無知のために、なにかで斃《たお》れる失態は、たくさんの例がある。無知と半可通《はんかつう》に与えられた宿命だ。
 それでなくても、誰だってなにかで死ぬんだ。好きな道を歩んで死ぬ、それでいいじゃないか。好きでなかった道で斃れ、逝《ゆ》くものは逝く。同じ死ぬにしても、ふぐを食って死ぬなんて恥ずかしい……てな賢明らしいことをいうものもあるが、そんなことはどうでもいい。
 芭蕉《ばしょう》という人、よほど常識的なところばかりを生命とする人らしい。彼の書、彼の句がそれを説明している。「鯛《たい》もあるのに無分別」なんていうと、たいはふぐの代用品になれる資格があるかにも聞え、また、たいはふぐ以上に美味《うま》いものであるかにも聞える。所詮《しょせん》、たいはふぐの代用にはならない。句としては名句かも知れないが、ちょっとしたシャレに過ぎない。小生《しょうせい》などから見ると、芭蕉はふぐを知らずにふぐを語っているようだ。他の句は別として、この句はなんとしても不可解だ。たいである以上、いかなるたいであっても、ふぐに比さるべきものでないと私は断言する。ぜんぜんちがうのだ。ふぐの魅力、それは絶対的なもので、他の何物をもってしても及ぶところではない。ふぐの特質は、こんな一片のシャレで葬《ほうむ》り去られるものではなかろう。ふぐの味の特質は、もっともっと吟味《ぎんみ》されるべきだと私は考える。
 それだからといって、なんでもかでも、皆の者ども食えとはいわない。いやなものはいやでいい。ただ、ふぐを恐ろしがって口にせんような人は、それが大臣であっても、学者であっても、私の経験に徴《ちょう》すると、その多くが意気地《いくじ》なしで、インテリ風で、秀才型で、その実、気の利《き》いた人間でない場合が多い。そこが常識家の非常識であるともいえる。
 死なんていうものは
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