めまわっている無駄が省けるわけである。
 まず「素材」の不良である。元来料理の良否は、素材の良否がものをいうのである。「まずい」素材をうまいものに是正するという料理法は由来発明されていない。
「まずい」ものをうまくなおすことは、絶対不可能という鉄則がある。
 僕が料理テストに歩いたところは、米・英・仏・独・伊であって、いずれも肉食国である。ところが、この肉食国に不思議にも日本のような良質の牛肉がないのである。ほとんど問題にならぬ悪質の牛肉が、欧米料理の素材として広く用いられている。これではうまい牛肉料理のできようはずがない。
 次に魚類がない。絶無ではないが、日本に比して百対一といえる程度。肉がなくて魚がない。それでいて工夫が稚拙、料理の美を知らない。行儀作法に欠けるボーイ、辛うじて料理はオリーブ油に助けられている始末である。
 それにフランス料理に用いている食器は、世界一般の西洋食器であって、さすがにフランスだといったものが見当たらない。過去においてどうであったか、四百年前の中国食器は立派だが、伊・仏にそれがあったかどうか。それらしいものは、パリの骨董屋には見られなかった。食器と料理の価値は常に手を繋《つな》いでいるのが本当であるが、伊・仏はどうであろう。食器にひけ目を感じている料理でもいけない。料理にひけ目をとっている食器でもいけないのが本筋である。現在、フランス料理に筋が通っていないのは、その世界に乱れがあるのであろう。それかあらぬか、われわれがフランス料理から学びとるものはほとんどなかったといい得る。これは料理文化の低さを語るものであるが、根本は料理素材の貧困である。いずこいかなるところにあっても、第一番の気がかりは「良水」の有無である。良水を欠く料理、それがなにを生むかは何人《なにびと》にもうなずける事実である。その良水がパリにないとのことである。ビールより高価な壜の水を飲んでいる市民である。次に肉食人に美肉が与えられていない。羊肉、馬肉を盛んに食っている。豚は鎌倉に匹敵するよさを持っているが、鶏肉は雛であるから味の鳥としては推奨できない。しかも、拙劣な料理法によって煮殺している魚介ときては、品種が日本の百に対して一、二であろう。蔬菜またしかりという次第。これでは、われわれ美食家を満足させる手はない。抽象的な概説ではあるが、だいたいフランス料理というものは
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