フランス料理について
北大路魯山人
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)慨歎《がいたん》
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フランス料理の声価は、世界第一のごとく誇大に評判され、半世紀以上に渉って、われわれ日本人を信じさせてきた。フランスに派遣された役人たちによってである。考えてみると、だいたいみながみな若輩で、もとより日本料理というものが、今までにどんなに発達してきているか、てんで知る由もない連中ばかりであったからだ、とわれわれが想像して慨歎《がいたん》するのも、あながち誤りではなさそうである。
上は大使、公使、下は貧乏画家青年、その皆が日本美食を通暁するはずのないことはいうまでもない。日本料理の真価というものがどこにあるか、ぶつかったこともなければ、気にもんだこともなさそうなひとたちばかりである。その若人によって、むやみと誇大に、フランス料理は日本人に宣伝されてしまったらしい。いわゆる若気の至りというやつである。それが今回の僕の外遊によって、憚《はばか》りながらほぼ明らかになった。僕のテストでは、その料理の発達振りはバカバカしく幼稚なものであった。微妙な工夫、デリケートな魅力を持たねばならぬはずの「味」は、終《つい》に発見し得なかった。味のことばかりではない。まず見る目を喜ばせてくれる「料理の美」がまったく除去されていて、まことに寂しいかぎりであった。
アメリカのように新しい国ではぜひもないが、仏・伊のごとき料理国がこれはなんとしたことだと驚くほど意外に感じたのである。しかし、なにかと飾り立てているようなものもないではないが、それが総じて稚拙であり、いわゆる児戯に等しいものであった。まことに意外であった。
「味覚」の点を多くのひとびとにあげてみても、一級二級三級と、ざっと、十級くらいまでの開きがあろう。うまいとかまずいとかいっても、そのひとびとによって大変な段階がある。甲が盛んにうまいうまいと悦に入っていても、乙はノーを叫ぶ場合も多々ある。きびしく吟味する者と、さほどにきびしくない者との相違であろう。その道の苦労の積み方にもあって、一概にいうことはできない。
さて、フランス料理だが、世評がむやみと礼賛するほどの物でないというには、やはり、それだけのわけがある。では、その種明しをするとしよう。総じて何事も根本さえ飲み込むことができれば、枝葉の末端に道を求
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