を上げてこの男の顔を見上げるとふとその顔に見覚えのある様な気持がした。そしてじつとその顔を打眺めた。未だ三十代の、若い鋭い顔立の如何にも威ある男である。その眉は濃く眼は帝王の様な豪放な表情を有つて居る。忽ち僕は思ひ出した。『さうだ。是は彼だ。是こそ久しく会ひたく思つて居た彼の野宮光太郎だ。』と。
(五) 不良少年と美少年
此で僕は話をすこし変へなければならない。それは未だ僕が中学の三年時分であつた。僕は当時中学によくある様に美少年だと云ふ評判を専らにして居た。多くの年長者から愛せられたが此野宮光太郎程僕に深い感銘を与へた人物は無かつた。彼は当時五年級であつた。教師側からは蛇蝎の様に思はれて居た不良少年であつたが、奇体に生徒間には神の様な権力を振つて居た。まつたく彼には不可思議なチヤームがあつた。彼は沈黙家で色青白く常に恐ろしくメランコリツクな顔つきをして居た。腕力は恐る可き物があり柔道撃剣ランニングあらゆる運動に長じて居た。彼はよく争闘をしたが非常に遣口が残忍執拗で、彼と喧嘩した者は必ず恐るべき苦患を受けなければならなかつた。学校教師さへ彼に向つては何事も命令されない位彼を恐ろしがつた。成績は劣等であつたが何故か数学のみには異常な才能を持つて居り、またそれを好んだ。僕と彼との交際は一年生の時から始まつた。彼は僕に恋し僕を自分の家へ始終いざなつた。そして毎日彼とばかり遊んだ。彼は両親なく独りぽつちで、或寺院の一室を借りて可成り贅沢に暮して居た。僕には決して悪い事を教へなかつたから僕はすこしも彼の悪い感化を受けなかつた。しかし僕の家庭では野宮と遊ぶ事を禁じたが、禁じられる程僕は彼に執着し、遂には病的な強い恋情をさへ起す様になつた。丁度野宮が五年級の始めあたりから彼は催眠術の研究をしきりに遣り始めた。そして僕は常にその相手をさせられた。常時野宮に依つて眠らされる事が異常な快楽であつた。眠れる間何んな事をしたかはすこしも覚えないのであるが、野宮が様々な力法を眠らす為に施す時言ひ知らぬ嬉しさを感じた。そして遂には野宮の一瞥で全然自己意識を失つてしまふ位になつた。野宮の方でも余程この術に巧になつたらしかつた。かくて僕が四年級に上つた春彼はもう学校を出なければならなくなつた。彼は或数学の学校に這入ると言つた。その学校は東京にあり我等の中学は九州の田舎にあるのだから、二人の別れる可き日は来た。別れる日彼は真実に涙を眼に浮べて僕の手を握つたので僕も泣いてしまつた。その時彼は次の如き事を厳かに言つてきかせた。『俺は俺自身で或恐ろしい運命が未来に横はり、俺はどうしてもその運命の中に生きなければならない事を直覚する。そして君も必ずその運命にたづさはる事であらう。我等の再会は必ずさう云つた場合に来るであらう。』と。僕はどう云ふ意味だかよくわからなかつたェ、そのまゝ別れた限り遂に今まで会はなかつた。彼が東京へ出て間もなく、ある争闘をして人を斬り行衛不明になつたと云ふ噂と共に彼の消息は絶えてしまつた。僕はやがて高等学校に入り東京で生活する様になつてからも、彼の事は決して忘れる事が出来なかつた。彼の名を思つても涙がにじむ程の思慕が、いつになつても止まなかつた。それは大学を出る頃までも続いた。そしてどうかして一目会ひたい会ひたいと思ひ度々探して見たがわからなかつた。しかし妻を貰つてからは一度も彼の事を思はぬ様になつて居た。その彼に、あゝ今この怪しい地下室で遇ふとは実に夢の様である。
(六) 俺は人殺しの行者
『おゝ君は元さんではないか。』と彼も叫んだ。そしてすぐ僕の縛しめを解いて呉れた。『随分年をとつたね。』と言ひながら別の椅子を僕にすゝめ、さて席定まつて彼と僕とはつく/″\と見つめ合つた。僕はたゞ茫然として何の考も出ない。唯彼の相貌が著るしく鋭利に神経的になつた事に特に気がついた。そして段々見て居ると彼が如何にも美しくなつた事がわかる。僕は嬉しくなつた。長い間気に掛け会ひたく思つて居た彼に、かく相対し得たと云ふ満足が彼の現在の位置に関する疑問をも僕の心に起させなかつた。
『君と此処で会はうとは思はなかつた。』と僕は言つた。すると彼は静に言つた。
『否。俺はこの再会をとうから予想して居た。よく君は来て呉れた。そらいつか俺が君と別れる時言つた言葉を覚えて居るか。あの時君が必ず俺の或運命にたづさはる可き事を予言したが果して[#「て」は、原文では「た」]君は来たね。是は実に必然の事であつた。』かく彼が言つてその眼光を僕の心の底深く投げた時、僕ははつと此奇異なる地底の人物が僕と昔容易ならぬ交情のあつた人物である事を意識しそれと共に『現在の彼』に対する責任と疑問と警戒の念慮が胸に湧き起つた。非常に不安になつた。『全体君は現在何の為にこんな所に居るのだ。』と問ひ掛けると彼は微笑した。そしていきなり椅子を進めて僕の両手を握り占めた。『俺が何故こんな場所に居るか。現在の俺が何であるかを君に明に話さう。俺の事をこの辺り一体の人間共が「人殺しの行者」と異名して居る。それは真実だ。俺は人を殺したい為に此んな穴の中に潜んで居るのだ。』
僕は青くなつた。さてはかの噂に聞いたる大賊の首領と云ふのは実は僕の常に慕つて居た昔の義兄弟であつたのか。僕は昂奮して勝ち誇れるが如き彼の面を見つめた時に突如強い意志が心中に現はれた。すでに僕には今最愛の妻がある。今此処に居る美しく強力なるわが友は嘗てはわが世界の占有者であつた。しかるに今はわが世界は豊子の物である。野宮はすでに他人である。しかも悪む可き大犯罪人である。僕は断じてこの友に抗しよう。僕が沈黙せるを見て彼は再び怪しく微笑んだ。そして握つた手を固く振つて言つた。『君は今まで一刻も僕の事を忘れた事が無かつたらう。僕も一刻も君を忘れ得なかつた。そしてかくも再会の日は来た。君と僕とはまた相別れる事なく共に生きて行かうではないか。僕が今切実に君に教へる事がある。それは実に地上最高の歓楽だ。それは殺人の歓楽を君に教へようと思ふのだ。』僕はぎよつとした。彼の音楽的なる言葉は僕をみるみる内にひきつけようとする。彼はかの不思議なる中学時代の魔力に更に十倍した魔力を以て僕を自分へ引つけようとするのだ。しかも[#「しかし」と思われるが原文のまま]僕は握られたる手を払ひ退けた。そして彼を睨みつけて叫んだ。『君は何を言ふんだ。僕と君との親交はすでに昔の事だ。今は僕に妻がある。僕はその女を熱愛して居る。彼女以外僕の生活には何物もない。犯罪者の弟子には僕は勿論ならないのである。早く僕をこの坑から外へ出して呉れ。君と僕とはもう永久に友人とならないのだ。』
(七) 奇怪なる暗示
彼は依然として微笑した。そして僕をなだめる様に手を振りながら説き始めた。『君はさう言ふのか。それは当然だ。すでに君が俺に執着のない以上決して強ひてとは言はない。しかし俺は永劫に君に執着して居る。俺は必ず君にまた僕[#「僕」は「俺」と思われるが、原文のまま]に対する執着を持たして見せる。それで俺は俺の思想を一言君に物語らう。堅く君に告げよう、およそ君にとつて殺人ばかりの快楽は此世界に求められないのだ。君が若し人生の美味なる酒を完全に飲み乾したければ君の手は殺人に走らなければならない。俺の友とならな[#原文では「な」欠落、214上1]ければならない。俺はすでに二百九十八人の人間を殺した。俺の此殺人の修道は世界の最も秀れた芸術であり最も立派な宗教であることを信ずる。君よわが見たる内最も美麗なる少年なりし君よ。その美しき手を生命と共に奔ばしる人間の鮮血に濡らす気はないか。』『否。否。其様な恐る可き事をもう僕の耳に入れて呉れるな。決して入れて呉れるな。』と耳に手を当て僕は叫んだ。彼はそのまとひたる金色の着物の間から一声から/\と打笑うた。恰もその様な悪魔が何物かを嘲笑するに似て居た。そしてすつくと立上つて静かに僕の顔を打見守つた。
僕も怒りに顫へてその面を睨みつけると不思議や忽ち眼前に一切は雲煙と化して、恐ろしい二つの眼が星の如くに光るかと思ふ間に、全然意識は消え失せてしまつた。
ふと耳元に或さゝやきを聞いて再び眼を開いて見れば僕はいつの間にか別荘の門前に横はつて居る。驚いて起き上ると薄暮の暗中に立てるは彼野宮光太郎であつた。起き上ると同時に、厳かな声で次の如く叫んだかと思ふと忽然彼の姿は見えずなつた。『さらば第五日の夜半にまた会はう。』僕はしばらくあと見送つたがまず/\家へ帰れたと思ふと嬉しくなりそのまゝ中へ駆け込んだ。豊子は帰りの遅いのを心配して居た矢先大変悦んだ。彼女の顔を見て始めて生きかへつた様な気持になつた。しかし僕は出会したこの怪しい事物に関しては誰にも何事も話さなかつた。何だか言つては悪い様に感じたのである。それにしても僕はどうして知らない間にこゝまで送り返されてしまつたのであらう。僕は気が付いた。さうだ。彼は催眠術を使つたのだ。催眠術――此言葉は僕を非常に不安ならしめた。若しかすると僕は何かの暗示を受けてしまつたかも知れないぞ。彼はいつか睡眠中の暗示が覚醒後尚有効なる事を語つた。その後多年必ず彼は多くの方術を体得したに相違ない。彼はしかも『第五日の夜にまた会はう。』と言つた。僕は俄に恐ろしくなつた。その夜豊子にもう帰らうと提議したが豊子は大に笑つて僕の臆病をくさした。豊子だつて僕が山中で会つた事を話せば必ず帰京に同意したらう。けれども僕はどうしてもその事を人に言ひ得ないのであつた。一種不思議な力がわが唇を止めたので。
(八) 眼が血走つて来た
その翌日から僕は何となく変調を呈して来た。何となくぼんやりし直ぐ眠たくなる。その癖発陽性が著しくなり、見る物聞く物皆面白い。嬉しくて手先が独りで躍り出す。頗る突飛な幻想が絶えまなく頭を襲ふ、僕は我知らず大声で唄つたり別荘の周囲を子供の様に馳け廻つたりした。豊子もすこし驚いたが彼女が元来活溌な性質なのでかへつて悦こんだ。僕はまた豊子に対する愛着が激しくなり毎日々々彼女と共に別荘近くを散歩しては花を摘んだり小鳥を撃つたりした。家へ帰ると一所に酒壜を傾けて飲んだ。こゝは高地であるから夏とは言ひながら春の様な気候である。僕はこの快さが無暗に好きになつた。そして目前にある危険がせまりさうなのをよく悟りながらこの山中を去らうとしないのであつた。こゝに一つの不思議なことがあつた。それはそれからと云ふ物僕が殆んど毎夜同じ夢を見る事である。その夢と云ふのは斯うである。僕は一人或山頂に立つて居る、右と左とに大きな谷がある。右の谷底には実に美麗な都会がぴか/\輝いて居る。然るに左の谷底は大きな湖水になつて居る。よく見るとそれは血の湖水だ。また空を仰げば真紅の星が一箇魔女の眸ざしの如く明かに澄み輝いて居るのである。自分は唯ぼんやり腕組してたゝずんで居る。是だけの事である。その夢を毎夜きつと見るのである。しかしいつもの自分ならそれを変だと感じもしようが妙ちきりんな状態にある僕はそんな事は格別気にも掛けないで矢張りのらりくらりと絶えず落着かず、少し本を読んだかと思ふとすぐ煙草を眩ひする程吹かす、画を描くかと思ふと鉄亜鈴をいぢる、その内に眠る、すぐ醒める、殆んど狂噪の状態であつた。かゝる状態にあると云ふ事は自分によくわかつて居るのである。しかもそれを好んで遺る様な二重の精神状態になつて居るのであつた。
こんな有様で四日は過ぎた。五日目の朝になると僕は激しく四日前山中で会つた事物を思ひ出した。そして何とも言ひ難い恐怖に打たれた。『この山荘に居ては必ず何か危険があるのだ。第五の夜半にはつまり今夜にはまたお前は野宮と顔を合はせなければならぬのだ。だから早く今日の内に山を下りてしまへ。一刻も早く早く。』と内心の声が僕を叱咤する、その癖僕は相不変のらくらとその日を送つてしまつた。その日妻は殊の外打沈んで居たがじつと自分の顔を見つめては、『貴方どうかなさりはしなくつて。眼が妙に血走つてゝよ。』と云ふのである。豊子は余り僕の調子が異常なのですこし心配し
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