ぢをどろ/\と呑み込んだ。蛙蜿はもとより常に食つた。是れ等は飛騨辺りではさう珍らしくもないのである。それから裏庭の泥の中からみゝずや地蟲を引きずり出して食べた。春はまた金や紫や緑の様々の毒々しい色をした劇しい臭気を発する毛蟲いも蟲の奇怪な形が俺の食慾を絶えまなく満たしたのである。唇が毛蟲に刺されて真赤にはれ上つたのを家人に見つけられた事もある。其他あらゆる物を喰つた。そして又中毒した事がなかつた。此奇妙な癖は益々発達しさうに見えたが、母と共に東京へ出て都会生活に馴らされて自然かゝる悪習は止んだ。
(四)
然るに丁度十八歳の冬母の死んだ時節は悲哀に耐へなかつた。悲しさ余つて始終泣いて居た。元来虚弱な身体は忽ち劇しい神経衰弱に侵されてしまつた。まるで幽霊の様に衰へてしまつた。そして小さい時の脊椎の病がまた発して来た。俺は此ではならないと思つて二十歳の時丁度在学した中学校を退いて鎌倉へ転地した。かくて鎌倉に居たり七里ケ浜、江の島に居たりして久しく遊んだ。散歩したり海水を浴びたりして暮して居た。その内に身体は段々と変化して行つた。久しく都会の喧騒の中に居た物が俄に美しい海辺に遊ぶ身となつたのだから吾身も心も段々と健康になつて行つた。本然に帰つて来た。嘗て飛騨の山中に独りぼつちを悦んで居た小童の心は再び吾に帰つたのであつた。或日の夕方の時俺はこの一箇月ばかり食物が実に不味《まず》いことをつく/″\と考へて見た。海水浴から帰つて来る空腹には旅館最上位の食事が不味いと云ふ筈はないのだ。俺は鏡に向つた。青白かつた容貌は真紅になつた。ぼんやりして居た眼玉は生き生きと輝き出した。斯かる健康を得ながら、何故物が旨く喰へないのかしらん。舌を突き出してふと鏡の面に向けた。その刹那俺は思はず鏡を取り落したのである。俺の舌は実に長い。恐らく三寸五分もあらうと云ふのだ。全体いつの間にこんなに延びたのか知ら、そして又何と云ふ恐ろしい形をした舌であらう。俺の舌はこんな舌であつたか。否々決して此んな舌ではない。が鏡を取つてよく見ると、やはり紫と錦との鋭い疣が一面にぐりぐり生えた大きな肉片が唾液にだら/\滑りながら唇から突き出して居る。しかも尚よく見ると、驚くべき哉、疣と見たのは針である。舌一面に猫のそれの如く針が生えて居るのであつた。指を触れて見れば其はひり/\するばかり固い針だ。かゝる奇怪な事実がまた世にあらうか。俺はまた以上に驚愕した事は鏡の中央に真紅な悪魔の顔が明かに現はれて居るのであつた。恐ろしい顔だ。大きな眼はぎら/\と輝いて居る。俺は驚きの為一時昏迷した。途端鏡中の悪魔が叫ぶ声が聞こえた。『貴様の舌は悪魔の舌だ。悪魔の舌は悪魔の食物でなければ満足は出来ぬぞ。食へすべてを食へ、そして悪魔の食物を見つけろ。それでなければ。貴様の味覚は永劫満足出来まい。』しばらく俺は考へたがはつと悟つた。『よしもう棄鉢だ。俺はあらゆる悪魔的な食物をこの舌で味はひ廻らう。そして悪魔の食物と云ふ物を発見してやらう。』鏡を投げると躍り上つた。『さうだ。この一箇月ノ舌がかくも悪魔の舌と変へられてしまつたのだ。だから食物が不味かつたのだ。』[#底本には、このカッコ閉じなし]新らしい、まるで新らしい世界が吾前に横たはる事となつた。すぐ俺は今までの旅館を出た。そして鎌倉を去り伊豆半島の先の或極めての寒村に一軒の空家を借りた。そして其処で異常な奇食生活を始めた。事実針の生えた舌には尋常の食物は刺激を与へる事が出来ぬ。俺は吾独自の食物を求めなくてはならなくなつたのだ。二箇月ばかりその家で生活した間の食物は土、紙、鼠、とかげ、がま、ひる、いもり、蛇、それからくらげ、ふぐであつた。野菜は総てどろ/\に腐らせてから食つた。腐敗した野菜のにほひと色と味とをだぶ/\と口中に含む味は実に耐らなく善い物であつた。是等の食物は可なりの満足を俺に与へた。二箇月の後吾血色は異様な緑紅色を帯び来つた。俺は段々と身体全部が神仙に変じ行く様に感じた。其中に、不図『人肉』は何うだらうと考へ出した。さすがにこの事をおもつた時、俺は戦慄したが、この時分から俺の欲望は以下の数語に向つて猛烈に燃え上つたのである。『人の肉が喰ひたい。』それが丁度去年の一月頃の事であつた。
(五)
それからと云ふ物はすこしも眠れなくなつた。夢にも人肉を夢みた。唇はわな/\と顫へ真紅な太い舌はぬる/\と蛇の様に口中を這ひ廻つた。其欲望の湧き上る勢の強さに自分ながら恐怖を感じた。そして強ひて圧服しようとした。が吾舌頭の悪魔は『さあ貴様は天下最高の美味に到達したのだぞ。勇気を出せ、人を食へ、人を食へ。』と叫ぶ。鏡で見ると悪魔の顔が物凄い微笑を帯びて居る。舌はます/\大きくその針はます/\鋭利に光り輝いた。俺は眼をつぶつた。『いや俺は決し
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