さつきの電報が一層不思議になつた。時刻から考へると金子はあの電報を打つて帰るとすぐ死んだ物らしい。自分はそつとまた九段坂の上へとつてかへして考えた。電報の三〇一と云ふ数字は何を意味するのであらう。九段坂の何処にそんな数字が存在して居るのであらう。見廻して見るに何もない。ふと気が付いた。九段坂の面積中で三百以上の数字を有つて居る物は一つしかない。それは坂の両側上下に着いた溝の石蓋である。そして始め上から見て右手の方の石蓋を下へ向つて数へ始めた。そして第三百一番目の石蓋をよく調べて見たが何も別段異状はない。殊に依ると此は下から数へた数かも知れない。石蓋は全部で三百十枚ある。だから上から数へて十枚目が下から数へて三百一枚に当る。駆け上つて其石蓋をよく見ると上から十枚目と十一枚目との間に何だか黒い物が見える。引出して見ると一箇の黒い油紙包である。『是だ是だ。』と其を掴むや宙を飛んで家へ帰つた。
 包みを解くと中から一冊の黒表紙の文書が表はれた。読み行く中に自分は始めて彼金子鋭吉の正体を眼前にした。その正体こそ世にも恐ろしい物であつた。『彼は人間ではなかつた。彼は悪魔であつた。』と自分は叫んだ。読者よ、自分はこの文書を今読者の前に発表するに当つて尚未だ戦慄の身に残れるを感じるのである。以下は其文書の全文である。

 (三)

 友よ、俺は死ぬ事に定めた。俺は吾心臓を刺す為に火箸を針の様にけづつてしまつた。君がこの文書を読む時は既に俺の生命の終つた時であらう。君は君の友として選んだ一詩人が実に類例のない恐ろしい罪人であつた事を以上の記述に依つて発見するであらう。そして俺と友たりし事を恥ぢ怒るであらう。が願はくば吾死屍を憎む前に先づ此を哀れんで呉れ、俺は実に哀む可き人間であるのだ。さらば吾汚れたる経歴を隠す所なく記述し行く事にしよう。俺は元元東京の人間ではない。飛騨の国の或山間に生れ其処に育つた。吾家は代々材木商人であり父の代に至つては有数の豪家として附近に聞こえた。父は極く質朴な立派な人物であつたが壮時名古屋の一名妓を入れて妾とした、その妾に一人の子が出来た。其が俺であつた。俺が生れた時既に本妻即ち義母にも子が一人あつた。不倫な話であるが父は本妻と妾とを同居せしめた。従つて子供達も一所に育てられた。俺が十二歳になつた時義母には四人の子があつた。そして其年の四月にまた一人生れた。その弟は奇体な赤ん坊として村中の大変な噂であつた。それは右足の裏に三日月の形をした黄金色の斑紋が現はれて居るからである。
 或る日赤ん坊を見たその旅の易者は、「此の子は悪い死様をする。」と言つたさうだ。今思ふと怪しくも此の予言は的中した。俺も幼心に赤ん坊の足の裏の三日月を実に妙に感じた。其時はまた俺にとつて実に忘れ難い年であつた。それは父が十月に急に死んだ事であつた。父は遺言書を作つて置いて死んだ。俺と母とは一万円を貰つて離縁された。家は三つ上の長男が継ぐことになつた。父は親切な人であつたから、俺等|母子《おやこ》の幸福を謀つて斯く遺言したのである。事実に於て母と義母との間には堪へざる暗闘があつたのであつた。義母が家の実権を握れば吾母の迫害せられることは火を見るよりも明かであつた。そこで吾等二人は父の葬儀が終ると直に東京に出て来た。それ以来俺は一度も国へ帰らず又国の家とは全然没交渉になつてしまつた。二人は一万円の利子で生活する事が出来た。母は芸妓気質の塵程も見えぬ聡明な質素な女であつた。
 十八歳の時彼女は死んだ。以後俺唯一人暮し遂に詩人としての放埒な生活を営むに至つた。是が吾経歴の大体である。この経歴の陰に以下の恐ろしい生活が転々と附きまとうて居たのであつた。俺は幼少から真に奇妙な子であつた。他の子供の様に決して無邪気でなかつた。始終黙つて独り居る事を好み遊ばうともしなかつた。山の方へ行つてはぼんやりと岩の蔭などに立つて空行く雲を眺めて居た。このロマンチツクな習癖は年と共に段々病的になつて、飛騨を離れる二年ばかり前の年であつた。半年ばかり私は妙な病気に悩んだ。其は背すぢが始終耐らなくかゆくてだるいのである。そして真直に歩く事が出来ず身体が常に前へのめつて居る。血色は悪くなり身体は段々痩せて来た。母は大変に心配して種々な療法を試みたが其内いつしか癒つてしまつた。その病中俺は奇妙な事を覚えてしまつた。其は妙に変つた尋常でない物が食べたいのである。始めは壁土を喰ひたくて耐らぬので人に隠れては壁土を手当り次第に食つた。そのまた味が実に旨い。殊に吾家の土蔵の白壁を好んだ。恐ろしい物で俺が喰つて居る内厚い壁に大きな穴が開いてしまつた。それから俺は人の思ひ及ばぬ様な物をそつと食つて見る事に深い興味を覚えて来た。人嫌ひで通つて居る事がかゝる事柄を行ふのに便利であつた。幾度かなめく
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