実がまた世にあらうか。俺はまた以上に驚愕した事は鏡の中央に真紅な悪魔の顔が明かに現はれて居るのであつた。恐ろしい顔だ。大きな眼はぎら/\と輝いて居る。俺は驚きの為一時昏迷した。途端鏡中の悪魔が叫ぶ声が聞こえた。『貴様の舌は悪魔の舌だ。悪魔の舌は悪魔の食物でなければ満足は出来ぬぞ。食へすべてを食へ、そして悪魔の食物を見つけろ。それでなければ。貴様の味覚は永劫満足出来まい。』しばらく俺は考へたがはつと悟つた。『よしもう棄鉢だ。俺はあらゆる悪魔的な食物をこの舌で味はひ廻らう。そして悪魔の食物と云ふ物を発見してやらう。』鏡を投げると躍り上つた。『さうだ。この一箇月ノ舌がかくも悪魔の舌と変へられてしまつたのだ。だから食物が不味かつたのだ。』[#底本には、このカッコ閉じなし]新らしい、まるで新らしい世界が吾前に横たはる事となつた。すぐ俺は今までの旅館を出た。そして鎌倉を去り伊豆半島の先の或極めての寒村に一軒の空家を借りた。そして其処で異常な奇食生活を始めた。事実針の生えた舌には尋常の食物は刺激を与へる事が出来ぬ。俺は吾独自の食物を求めなくてはならなくなつたのだ。二箇月ばかりその家で生活した間の食物は土、紙、鼠、とかげ、がま、ひる、いもり、蛇、それからくらげ、ふぐであつた。野菜は総てどろ/\に腐らせてから食つた。腐敗した野菜のにほひと色と味とをだぶ/\と口中に含む味は実に耐らなく善い物であつた。是等の食物は可なりの満足を俺に与へた。二箇月の後吾血色は異様な緑紅色を帯び来つた。俺は段々と身体全部が神仙に変じ行く様に感じた。其中に、不図『人肉』は何うだらうと考へ出した。さすがにこの事をおもつた時、俺は戦慄したが、この時分から俺の欲望は以下の数語に向つて猛烈に燃え上つたのである。『人の肉が喰ひたい。』それが丁度去年の一月頃の事であつた。

 (五)

 それからと云ふ物はすこしも眠れなくなつた。夢にも人肉を夢みた。唇はわな/\と顫へ真紅な太い舌はぬる/\と蛇の様に口中を這ひ廻つた。其欲望の湧き上る勢の強さに自分ながら恐怖を感じた。そして強ひて圧服しようとした。が吾舌頭の悪魔は『さあ貴様は天下最高の美味に到達したのだぞ。勇気を出せ、人を食へ、人を食へ。』と叫ぶ。鏡で見ると悪魔の顔が物凄い微笑を帯びて居る。舌はます/\大きくその針はます/\鋭利に光り輝いた。俺は眼をつぶつた。『いや俺は決し
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