雷嫌いの話
橘外男

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)鬱陶《うっとう》しい

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一度|酷《ひで》え

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「答+りっとう」、第4水準2−3−29]
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 びしょびしょと、鬱陶《うっとう》しい雨が降っている。雨垂れの音を聞きながら、私は、このペンを握っているのであるが、この文章が雑誌に載って、世の中へ出る時分には、カラッと晴れた暑い夏がやってくると思うと、私は、何ともいえぬ憂鬱《ゆううつ》な気持になってくる。
 夏が、厭《いや》なのではない。夏につきものの、ゴロゴロピシャに、また二、三カ月、悩まされなければならぬのかと思うと、心底、気持が暗くなってくる。
 いつか、私のところへ来たある雑誌の記者が、あなたは雷がお嫌いだそうですね? と空っとぼけて聞くから、まさかにいい年をして、初めて逢った記者クンに、ほんとうのことをいって、こいつ臆病な奴だなんて思われるのは敵《かな》わんから、ええまあね、あんまり好きな方ではないでしょうねと、他人事《ひとごと》みたいな顔をしてくれたら、へえそうですかね、その程度のお嫌いなんですかね? 私はまた、青い顔をして蚊帳《かや》でもお吊りになるんだと思ってたんですがね。だって小説家のKさんのところへ行きましたら、そうだねえ、まず雷嫌いの横綱は、橘氏だろうね。あるいは、大関くらいかも知らんが、関脇とは下らんよ! って、笑ってられましたからねと、大真面目にいわれて、返事に困ったことがある。ヘッポコ小説家だから、小説の方はなかなか横綱までゆかぬが……横綱どころか! フンドシ担ぎも覚束《おぼつか》ないが、ほほう、してみると、雷の方ではいつの間にか、横綱の近くまで出世してるのかな! と、苦笑したことがある。

      子供の前で顔色なし

 横綱だか、取り的《てき》だか知らんが、ともかく、雷はイヤですね、実に厭《いや》だ。ゴロゴロピカリとくると、もう生きた心地はせん! いい年をして、子供たちの手前、面目ないから、別段戸棚に潜《もぐ》るわけでもなければ、蚊帳《かや》を吊るわけでもない。平気な顔を装うて、机の前に坐ったり、人と話はしているが、上《うわ》の空だ。一切の思念がことごとく雷にばかりいってしまう。ピカッと光るたんびに、五体が竦《すく》む。ハッとしどおしで、眼を閉じてみたり、胆《きも》を冷やしたり、鳴り始めてから鳴り終るまで、雷《らい》さまのことばかり、考えている。
 今のは、どの辺で鳴ったのかな? もう、頭の上へ、戻ってきたんだろうな? 今のは光ってから口の中で、十勘定してから鳴ったから、大分遠のいたか知れん? なぞと夢中で考えてるから、人から何か聞かれても、トンチンカンな返事ばかりする。夕立ちが済むと、私はもう芯《しん》が疲れて、グッタリして、道の十里も歩いたほどに、へとへとになる。
 そのくせ、雨雲が切れて、陽《ひ》の光が、さっと樹間《このま》から洩《も》れて、音が大分遠のいた頃から、無暗《むやみ》やたらと、精神が爽やかになって、年甲斐《としがい》もなく、ハシャギたくなる。今日はまあ、これで救われたと思うと重荷を下ろしたように吻《ほ》っとして……、夕立ちがきて涼しくなったのと、雷から解放されて蘇生した喜びとで、人の知らぬ二重の爽快感を、私だけは味わっているわけなのであるが、今まで憂鬱《ゆううつ》千万な顔をして黙然《もくねん》と死んだようにヒシ固まっていたオヤジが、急に気も軽々とハシャギ出すのは、よほど滑稽《こっけい》なのであろう。
 雷が済んだから、お父さん、吻っとしたろう? なんて子供から冷やかされる。子供も五つ、六つ、七つ、八つくらいまでは何とかゴマカス手もあるが、もう二十歳《はたち》、二十一となってはゴマカシても、とてもおっつくものではない。
「お父さんは、子供の時分に、お前たちのお祖母《ばあ》さんが、あんまり雷を怖がったもんだから、それがお父さんにまで、伝染して、もうどうにも直らんよ! お前たちはお父さんみたいに、なってはいけない! 雷を怖がるのは、お父さんだけにして、お前たちは怖いものなしに、のんびりと、大きくなるんだぞ!」
 と、仕方がないから雷の時だけは、オヤジの威厳を棄てて、私は子供たちと、友達づき合いをする。
 有難いことに、ふだん私は、子供に呶鳴《どな》ったこともなければ子供に説教したこともなく、子供と友達みたいにして遊んでるもんだから、雷に首を竦《すく》めていたからとて、子供たちはこのオヤジを、そう馬鹿にしてる様子もない。癇癪《かんしゃく》持ちの一方ならぬ、ガムシャラおやじだが、雷だけは性に合わんのだな! と、子供心にも、憐れんでいてくれる様子である。
 ゴロゴロと遠くの方でやり出すと、大丈夫だヨ、大丈夫だヨ、お父さん! 今日はこっちの方角だから、そう大して、鳴らないよ! と、中学二年の末っ子などは、御注進に駈けつけて来てくれる。
「バカバカ、何言ってる、大きな声を出して! そんなことなんぞ、お父さんは心配してるんじゃない!」
 と、えらそうな顔をして見せたっておっつかぬ。
「なァンだい、人がせっかく、親切に教えに来てやったのに! さっきから、そんなところに突っ立って、空ばっかり見てるじゃないか!」
 と、子供は膨れっ面《つら》をする。困ったオヤジです。いくら体裁をつくったって、子供の方がよく知っとる。

      弱将の下、強犬なし

 私は、デカという、頗《すこぶ》るもって強豪な中型の秋田犬を飼っている。こいつのオヤジは、昔間違って、狼罠《おおかみわな》にかかってキャンキャン啼《な》き叫んでいたが、誰も助けに来てくれないと知ると、罠にかかった自分の脚を、自分で食い切って、三本脚でビッコ引き引き戻って来たという剛《ごう》のものだけに、このデカの強いことも、また無類である。
 どんな大きな犬と噛《か》み合いをやっても、まだ一回たりとも、音《ね》を挙げたためしがない。負けても、相手に食いついたっ切り離れないのだから、抛《うっちゃ》っとけば、命のほどが危ない。こっちが青くなって、必死に引き分けてやるほど、気性の敢為な獰猛《どうもう》極まる奴であるが、このデカ先生もまた、生得、雷様がお嫌いらしく思われる。ピカピカとくると、たちまち犬舎を飛び出して、どっかへ姿を晦《くら》ましてしまう。
 夕立ちが済むと、ノコノコと、どこからか現れてきて尻《し》っ尾《ぽ》をふったりジャレついたり、ハシャギ廻るのであるが、どこへ行くのか、初めのうちはなかなかわからなかった。が、最近、やっとわかったのは、このデカ氏はピカピカゴロゴロの間中、光の届かぬ椽《たるき》の下の一番奥の方に身を潜め、息を殺しているわけなのであった。
 なるほど、弱将の下[#「弱将の下」に傍点]、勇卒なし[#「勇卒なし」に傍点]とは、よくいったもんだ! としみじみ感じたのであるが、こいつもやはり、雷様のお通りになった後は、爽涼感と蘇生と二重の喜びを、感じるらしい。恐怖の去った後でハシャギたくなるのは、何も人間だけとは限らねえもんだな! と、つくづくそう感じたことである。

      電車で逃げる

 今では、もう観念したのと、年を取って、逃げ出すのが億劫《おっくう》なもんだから、夕立ちになっても、死んだ気で、家《うち》にじいっとしているが、ここまで精神修行をするには、随分私も苦労したものであった。
 以前は、一天《いってん》俄《にわか》に掻《か》き曇って、ゴロゴロゴロゴロ鳴り出すと、とてもじっとして、家になんぞ、落ちついていられるもんではない。大急ぎで着物を着換えて停車場へ駈けつける。省線電車に乗って雷の来ない方へ逃避をやらかして、我が家の方の夕立ちが済んだ頃を見計らって、晴れ上がった西の空に、七色の虹《にじ》を望みながら、悠然と御帰館相成ろうという寸法であったが、問屋がそう旨《うま》く卸してくれぬことがあって、一度|酷《ひで》え目に遭ったことがある。
 西南はるかな空がかき曇って、ドロンドロンドロドロということになったから、例のごとく停車場へ急いだと思いな。何でも高円寺に住んでいた頃であったが、中野、東中野、大久保と、電車の行く先もって天地|晦冥《かいめい》、ガラガラピシャン! と、今にも顔の上へ落下してくるかと、安き心地もなく電車の中で首を竦《すく》めていた。どうも、四谷、飯田橋、お茶の水方面の空が、黒雲に掩《おお》われてると思ったから、新宿でコースを変えて、池袋方面へ逃げた。ところが、ゴロゴロピシャリはなかなかもって、新宿どころの騒ぎではない。行く手も後方もピカピカと、雲を劈《つんざ》く稲妻に囲まれて到頭進退|谷《きわ》まって、御徒町《おかちまち》で電車を降りて、広小路《ひろこうじ》の映画館へ飛び込んだら、途端にバリバリズシーン! と、一発落下した。
 この時だけは、よくも気絶しなかった! と、後で自分ながら感心したことであったが、プツッと映画が切れて、暗黒の中で観客は、もう、映画どころの気分ではない。アハハと泣き笑いみたいな、悲愴極まる声を出して、キナ臭い匂《にお》いの中で騒いでいる。そこを逃げ出して、途方に暮れつつ電車に乗って、晩の十時頃やっとの思いで、雷も立ち去ったろうと、恐る恐る高円寺の駅まで帰ってきたことであったが、駅を出てみると、あの土砂降りの大雷雨にもかかわらず、不思議や! 駅前の土は、少しも濡れていない。
 松虫鈴虫が、虫屋の店で、夏の夜の景物詩を奏でて、浴衣《ゆかた》の袖《そで》を翻した夜の散歩の男女で、通りは埋まっている。死の一歩手前まで、逐《お》い詰められたような私の気持とは、およそ、似ても似つかぬ長閑《のどか》さであった。狐《きつね》につままれたような顔をして、家へ辿《たど》りついて、
「どうだい? 夕立ちは、酷《ひど》かったろう?」
 と聞くと、いいえと妻は、怪訝《けげん》そうな顔をしてる。
「蒸し暑くて蒸し暑くて、……今日は、一雨来るかと思って、せっかく楽しみにしてたのに、どっかへ夕立ちが逃げてしまって到頭、一雨も降らずじまいよ」
 と、きた時には、私はううん! と、へたばってしまって、玄関に腰を降ろしたまま、しばらくは口もきけなかった。夕飯も食わずに、へとへとになって、夕立ちの来る方来る方と、東京中逃げ廻ったバカ野郎はどこのどいつだと、自分を罵《ののし》りつけてくれたいような気がした。

      夏は雷から逃避行

 今度の戦争へはいる、五、六年前のことであった。その時分は私も、日本橋に、小さなオフィスを構え、どうやら貿易屋で、飯が食えていた頃であったから、せめて自分の家だけは、一番雷の鳴らぬところへ建ててそこから東京へ通勤しようと考えた。
 雷の鳴りそうな日は、社長は御欠勤になって、その安全地帯の自宅で、悠然と読書にシャレ込もうという寸法であった。ノコノコと中央気象台まで出かけて行って、一体東京近辺では、どこが雷が鳴らないでしょうね? と、尋ねたことがある。途方もないバカなことを、聞きに来た男を迷惑がりもせずに、若い二人の技手が、――今なら技官というところであろうが、親切に応待してくれた。
 なるほど、気象台には、こういう調べがついているんだなと、感心したことであったが、長さ二尺、幅一尺ぐらいの、大きな図表を十五、六枚も持ち出して来、私のために調べてくれた。それには一枚一枚に日本地図が印刷されてあって、その上に波のように青い線が、ビッシリと一杯に彩られてある。一月に三十回以上雷の鳴るところ、十回以上鳴るところ、五回以上鳴るところといった風に、細かな統計が取ってあった。
「比較的、雷の鳴らないところというお望みなら、海岸へ住むんですな。東京近辺では、逗子《ずし》、葉山《はやま》。千葉県では内房《うちぼう》地方、……その辺が、月五回の部分に当りますから、一番雷が尠
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