はいい年をしてよほどの、臆病者なのであろう。
 臆病なればこそ、五尺六寸四分の大《でか》い図体《ずうたい》をして、鬼をもひしがんばかりの獰猛《どうもう》な人相をしているくせに、カミナリが怖いなぞと、バカばかりほざいているわけなのであるが、しかし自分ではそう思いながらも、人から臆病もの呼ばわりされると、無性に腹が立つ。
 私が雷を恐れるのは、何か私の身体が特別に雷の感度に鋭敏な、電気の良導体みたいにでき上がっているからであろう。臆病とか臆病でないとか、そんな人間の本質なんぞに関係のある話ではないぞ。昔、豪勇なる武士で、青蛙《あおがえる》を見ると口がきけなくなるという蛙の良導体みてえな、豪傑があったではないか! と、理屈の一つもヒネクリたくなるのであるが、何と詭弁《きべん》を弄《ろう》しても、結局は臆病なるが故の、させるわざであろうと心の中で苦笑している。
 その反動からかは知らないが、
「私は臆病です、ですから雷が嫌いなのです」
 と、正直に告白している人を見ると、私はその人に何ともいえぬ親愛と、尊敬の念の湧《わ》き出《い》ずるのを、禁じ得ない。
 今の世代の読者には親しみのない名かも知れないが、昔「肉弾」という本を書いた桜井忠温《さくらいただよし》という有名な陸軍少将があった。どうせ少将なら、髭《ひげ》でもヒネッて踏ん反り返ってつまらねえ野郎だろうと思っていたが、何かの本に、
「大砲の弾よりも爆弾よりも私は、雷がオッカナイ」
 と、このヒトが書いているのを見た途端から、私はこの少将に多大の親しみと、尊敬を払わずにはいられなくなった。
 最近では、「魚臭くない魚の話」とかいう本を書いた、東大教授の末広恭雄《すえひろやすお》という博士がある。この人も何かの雑誌に「雷がオッカナイ」ということを率直に告白していた。それを見た途端、やはりこの人にも私は、言わん方ない親愛を感ずるようになった。
 同病相憐れむ、気持の現れかも知れないが、世の中には雷の嫌いな人も、決して尠《すくな》くないであろうと考える。もしそういう人が、私にも親しみと尊敬を懐いてくれたら、有難てえことになるぞ!
 と思ったから、ちょっと人直似《ひとまね》して[#「人直似《ひとまね》して」はママ]、正直ぶってバカばかり並べ立ててみた次第。尊敬してくれんでもいいから、笑わんでおいて欲しい。



底本:「橘外男ワンダーランド ユーモア小説篇」中央書院
   1995(平成7)年12月4日第1刷
初出:「旅」
   1952(昭和27)年8月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年11月28日作成
青空文庫作成ファイル:
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