ゆぶね》からざぶざぶと湯がこぼれて、まるで温泉場みたいだなと、不思議な気がしていたのです。
父親の好みで拵《こしら》えた温泉だったのかも知れません。泉質はリューマチを患っている祖父に、一番効く食塩泉だというのです。
「温泉があって、泉質がいいばっかりに、発掘権を手に入れて、別荘のつもりで、ここを建てましたの。とても父が、気に入ったもんですから、それで観光地も作ろうという気になって……。
日本にはほんとうの外人向きの温泉がないから、ホテルを拵えてここへ日本一の温泉場を作って、祖父や叔父叔母みんなを連れて来て、喜ばせてやろうって気になりましたの。それで湖を買ったり、断崖《だんがい》に階段をつけさせたり、手を拡げ出したんですわ。でもその時分は、向うから持って来たお金もありましたし、ユーゴからお金も自由に取り寄せられましたから、ちっとも困りはしませんでしたけれども、大東亜戦争に入る半年ぐらい前から欧州からの手紙も送金も、パッタリ途絶えてしまって……。
独逸《ドイツ》は、前からソ連や英国と戦っていましたから、戦局の具合で国内が混乱してきたのではなかろうかって、心配して手を尽してみても、東欧の様子は少しもわかりませんし、そのうち日本も亜米利加《アメリカ》との間が険《けわ》しくなって、もういくらヤキモキしても欧州へは、行くことも帰ることもできなくなってしまって……。
故国から送金さえ来れば、こんなホテルや観光地ぐらい、わけなくできますのに、来ないばっかりにみんな、行き詰りになってしまったんですわ……」
「それで貴方《あなた》がたは、ここへお移りになったんですか?」
「それは、もっとほかの事情からですわ……ヤキモキしているうちにやがて亜米利加と、戦争になってしまいましたでしょう? もう外国人は、本国へ帰ることも自由に国内を旅行することも、できなくなってしまいましたの。……でも、それだけならば、わたくしたちまだこんなところへは引っ込んでしまいはしませんけれど……」
父親は、日本の籍を持って日本人だけれど、自分たちはユーゴ国籍で、日本の籍を持っていないというのです。戦争と同時に姉妹《きょうだい》二人は、三日にあげず日本の憲兵隊から厳重な取調べを受けて、日本の国籍を取得して日本人としての登録をしなければ、父親と引き離して姉妹だけは他の敵性国人同様、萄《ポ》領の澳門《マカオ》まで送ってそこで国外追放に処されなければならなくなったというのです。
慣れぬ他国も同然の日本へ来て、父に引き離されてわたくしたち二人だけ、身も知らぬ澳門なんぞへ追放されてしまったら、一体どうして生きていったら、いいんでしょう? スパセニアはまだ子供でしたけれど……わたくしたち生きた心地もなくて、毎日抱き合って、泣いてばかりいましたの。パパが心配して百方奔走して、日本国籍を取得しようとしましたが、わたくしたちの日本滞在日数が、二年と何カ月ではどうにもならず、毎日のように憲兵隊へ日参して、しまいにはその人が公使館武官でベルグラード在勤中、少しばかりのお世話をした縁故を辿《たど》って西部軍管区司令官の許《もと》まで、頼みにいってやっとのことでここに引っ込んで、――東水の尾の別荘に閉じ籠《こも》って、三里四方へ踏み出しさえしなければ、大眼にみておくという条件で、辛うじて国外追放だけは、免れたというのです。
「それで急に、こんな不便なところへ、越して来てしまいましたの。そうでなければわたくしたち、父と引き離されて澳門へつれて行かれなければならなかったんです。……わたくしたち女中も使っていませんでしょう? 敵性国人と見られて、監視されているんだから、辛《つら》くても謹慎して、少しでも憲兵隊の心証を害《そこ》なってはいけないと、父が心配して……わたくしたち、ラジオも写真機も、持っておりませんでしょう? 憲兵がここまで家宅捜査に来て、みんな没収していってしまったんですわ……」
それならもう、戦争も済んだんですから、いつでも長崎へ帰れるじゃありませんか! といったのに対して、ジーナは切れ長な眼を潤《うる》ませながら、こういう話をしてくれました。憂い辛いその四年間も過ぎて、いよいよ戦争も済んで、欧州の事情の判明した途端、この一家を驚かせたものは、独逸《ドイツ》の滅亡でもなければ、ソ連の東欧衛星国家群の確立でもありません。故国のユーゴ・スラヴィアが、チトー元帥《げんすい》を主班とする共産政権下の支配に移って、国内財閥の事業も財産もことごとく政府に没収されて、今では民間の資本というものが、ユーゴ国内に一つも存在しないということだったのです。
営々として心血を注いだ父親の一生の仕事は、まったく水泡に帰してしまったというのです。いいえ、一生の仕事が水泡に帰してお金のなくなったことなぞは、諦《
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