てましたのよ……」
 湖畔に、朽ちて倒れた楢《なら》の大木があります。その幹に腰を降ろして、ジーナがいうのです。私も並んで腰をかけました。スパセニアが番人にいい付けて、水門を開いて水を落して見せるのだと、私たちを離れて遥《はる》かの小舎《こや》の方へ駈け去っていった時でした。
 この辺の地所もまたこの湖も、みんな父親のものだとジーナがいうのです。一体|貴方《あなた》のお父様という方は、どういう方なんです? 鉱山技師でありながら、こんなドエライ土地を持って、おまけにあんなすばらしい大工事をやりかけて、こんな湖までお買いになって……お母さんもおいでにならないで、……こんな淋《さび》しい山の中なぞに住んで……と堪《たま》らなくなって到頭私は、昨夜以来聞きたい聞きたいと思っていたことのすべてを、みんな一時に口へ出してしまいました。そしてその時初めて、ジーナから詳しい身の上を聞く機会を持ったのです。

      四

「父は、ほんとうにえらい人ですわ。娘の口から、そんなことをいっては、おかしいかも知れませんけれど……どんな苦しいことがあっても、決して愚痴はいいませんし……」
 と溜息《ためいき》を吐《つ》いて、ジーナは語り出しました。父親というのは、同じ長崎県でもここからは北の端《はず》れに当る、平戸島の人だというのです。漁師の家に生まれて貧しいために、学校の教育も碌々《ろくろく》受けられないで、子供の時から漁師仕事ばかりしていたというのです。
 十四の時には到頭、外国船の給仕《ボーイ》に売られて……が、船の待遇が悪くて虐待されるのであっちへ着きこっちで積荷して、流れ流れてアドリア海のスプリトという、小さな港で木材を積み込んだ時に、到頭脱走して、陸地へ逃れてしまったというのです。
 今から思えばそこが、ピーター陛下治世当時のセルビア王国、今のユーゴ・スラヴィア国のダルアチア州だったのですが、十四ぐらいの無学な子供に、自分の逃げ込んだ土地が英国なのか、伊太利《イタリー》なのか、仏蘭西《フランス》だか何が何やら、わかったものではありません。ただ、鬼のような船長に見つかりたくない一心で、暗雲《やみくも》に奥へ奥へと逃げ込んで、農家の水|汲《く》みをして昼の麺麭《パン》を恵まれたり、麦畑の除草を手伝って晩飯にありついたり、正規の入国手続きを踏んでいないのですから、官憲の眼を忍んであっちへ逃げこっちへ逃げして、言語に絶する辛酸を舐《な》め尽しました。それでも翌年の春には、ゼニツアという鉱山で働くことができたというのです。
 そしてその働いているところが、ある日、鉱山主の眼に留まって、言葉もわからぬ異郷でいたいけな日本の子供が苦労しているのを哀れに思った鉱山主のお陰で、昼は働きながら夜は鉱山経営の夜学校へ通わせてもらうことができるようになったというのです。
 が、案外成績がいいので教師たちから惜しがられて、今度はイドリアの中学校《ギムナジューム》へ……そこを終るとさらに高等学校《リッツエ》へと、いずれも思いのほかに成績がいいのに驚いて、鉱山主も本式に身を入れ出しました。そして高等学校《リッツエ》を終ると正式に学資を出してくれて、首都のベルグラードの大学《ユニヴァルステート》へ入れてくれました。もう働かなくても、勉強できる身の上になったのです。
 専攻は、採鉱|冶金《やきん》学……もともとが、無理な生いたちをしているのですから、学校も年を取ってから出て、二十九の年にやっとベルグラード大学を卒業することができました。そして鉱山主の頼みで、その長女と結婚して鉱山主の事業を助けることになったというのです。
「その鉱山主がドラーゲ・マルコヴィッチといって、わたくしたちの祖父……長女というのが、母ですわ。でも、祖父の鉱山といったところで、そう大きな銅山ではありませんのよ。その時分は、三流四流の小さな銅山だったということですけれど、結婚して一心に祖父を助けて、二十年ばかりのうちに父の努力一つで、銅山は採量が増して、今ではユーゴ国内で一、二を争う産出額を持つようになりましたの。そのほかに、銀山の大きなのを一つと、クロアティアのマイダンペックに、モリブデンの鉱山まで、持てるようになりましたの」
 鉱山主の長女である姉妹《きょうだい》の母親は、スパセニアが生まれると間もなく世を去って、姉妹とも母の味というものを、ほとんど知らないというのです。物心ついてからは、ただ父親の慈愛一つに育《はぐく》まれて、その時分姉妹の住んでいた本邸は、首府のベルグラード郊外、そこで三十人近くの召使に侍《かしず》かれて、別邸は銅山の所在地のゼニツアの町に一つと、ボスニア・ヘルツェゴビナ州のサライエボという美しい都会にも、避暑用として一つ……。
 ユーゴの銅山王マルコヴィッチの孫娘と呼ばれて
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