これから、お伺いしましょう!」
「まあ、これからスグに?」
「いけませんか?」
「いいえ、飛んでもない! そうお願いできますれば、もうこの上ございませんけれど……でも、それではあんまり、押し付けがましいようで……」
と、母親の眼には、また涙がうかんでくる。ひとり息子の重病で、気が弱くなってちょっとした人の行為にも、スグ涙ぐんでいるのを見ると、今日までの二年間、親の方がどんなに苦しんでいたか私にも察しられるような気がした。
そうして上げて、貴方《あなた》、そうして上げて頂戴《ちょうだい》! と、私の方を向いている妻の眼が、瞬《しばた》いている。牡丹《ぼたん》はもう散ったが、薔薇《ばら》は花壇一杯、咲き乱れている。フーペルネ・デュッセとかグローリアス・デ・ローマとか、なるべく艶麗《えんれい》なのを選んで妻が花束を拵《こしら》えているのを見ると、
「そんなにまでしていただいて……まあ、もう、結構でございますから、奥様」
と母親は縁側に佇《たたず》んで、おろおろしている。それを見ながら私が考えたのは、なるほどそういう長い病気では、手紙を書くというわけにはゆかぬであろうが、せめてもう少し気の利《き》いた使いでもよこして、事情さえ説明してくれたら、私ももっと早くにそんなに病気の重くならぬうちに、飛んでいったものを! と、何だか胸を噛《か》まれるような気持がしたことであった。
ともかくこれが、柳田というその青年の家へ足を運んだそもそもであったような、気がする。三年前の五月頃……薔薇《ばら》の花の、真っ盛り時分であった。
はしがきの二
私が行くことになったので、喜び切っている母親から、車の中で聞いたところでは、その青年は病気になるまで、東大医学部の三年に在学していたということであった。
「ではお友達たちはもうみんな、一人前のお医者さんになってますね」
といってから、心ないことをいったと、自分でも後悔した。
「それはもう、皆さん……免状もお取りになって……」
といいさして、案の定、母親は声を呑《の》んで、賑《にぎ》やかな通りに眼を落している。その放心したような淋《さび》しげな横顔が心を打ったから、
「清瀬《きよせ》村の病院へ行くと、肋膜《ろくまく》の骨を切って直すとか、やってるそうですが、そんなことをなさっても駄目ですかね?」
と、話題を変えてみたが、それもすでにやって、今では右の胸に肋骨はほとんどない、という話であった。
「どんなことをしましても、もう当人に、それだけの寿命しか、ないんでございましょうねえ。ほんの、気胸《ききょう》だけで丈夫になってらっしゃる方も沢山おありになりますのに……」
いつか車は、冠木門《かぶきもん》の大きな邸内《やしきうち》へ入って砂利を敷いたなだらかな傾斜を登っている。気が付いたことは、こんな大きな邸に住んでいるひとり息子では、私のような素人が清瀬村や肋骨を切る話なぞを、持ち出すまでもなく、あらゆる療法は、ことごとく試み尽しているであろうということであった。内玄関もあれば、車寄せの大玄関もある幽邃《ゆうすい》な庭園が紫折《しお》り戸《ど》の向うに、広々と開けている。車が玄関へ滑り込むと、並んでいた大勢の女中が一斉に小腰《こごし》を屈《かが》める。
「早速先生が、お訪ね下さいましたよ、わざわざ御一緒に……」
と婦人に声をかけられて、女中頭《じょちゅうがしら》らしい四十年配の婦人が、
「まあ、……恐れ入ります、若旦那《わかだんな》様が、さぞお喜びでございましょう」
と一際丁寧に、迎えてくれた。磨き込んだ板の間から大階段を上って、案内されたのは南向きの庭の見晴らされる、二階の奥座敷であったが、この座敷の広いこと、二十畳くらいは優《ゆう》に敷けるであろうと思われた。
小間使が茶を運んで来たり、菓子を運んだり、やがて母夫人が現れて、改めて来訪の礼を述べる。お通しして、病人を昂奮《こうふん》させてもいけぬから、おいでになったことを、当人に通じて来る間しばらく、お待ちを願いたいということであった。
やがて通されたのは、この廊下を東の方へさらに、間数《まかず》四つ五つも越えた奥座敷である。なんとバカげて、大きな邸だろうか? とびっくりしたが、これが日本拓殖銀行総裁の柳田|篤二郎《とくじろう》という人の邸であって、迎えに来たのがその夫人、寝ている病人というのがそのひとり息子と後で聞いては、なるほど大きな構えをしているのも無理はないなと、思ったことであった。
病人は、その奥座敷の床の間寄りに、厚い蒲団《ふとん》に仰臥《ぎょうが》している。見る陰もなく瘠《や》せ衰えて、眼が落ち凹《くぼ》んで……が、その大きな眼がほほえむと、面長《おもなが》な眼尻《めじり》に優しそうな皺《しわ》を湛《たた》えて
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