れて暮す二週間……この間に何とか父に頼んでみようと思いました。そして、道後へ着いてからも、毎日毎日退屈な日を、父の謡《うたい》を聞かされたり、碁《ご》の相手をいいつかったりして暮しながら、何と父に持ちかけようか? とその機会《おり》ばっかり窺《うかが》っていました。
 道後へ来てから、五、六日もたった頃でしょうか?
「どうだ退屈したか?」
「退屈はかまいませんけれど……お父様! 僕は少しお父様に、相談があるんです。……友達のところへ、ここへ来てるといってやったら、ここまで来てるんなら、寄ってくれたっていいじゃないか? といって来たんです。僕、いって来てもいいか知ら?」
「いって来たらいいじゃないか!」
 と、父は好きな唐詩撰《とうしせん》を読んで、殊《こと》に機嫌がいいのです。
「だっていけばスグには帰れませんから、三日ぐらいかかりますよ、かまわないか知ら?」
「三日?」
 と初めてびっくりして本から眼を離しました。
「なんだ、ここじゃないのか?」
「山口県の宇部《うべ》というところなんです。一緒に宇田中の温泉へ行こうと、楽しみにして来てるんです。特別親しくしてるもんですから……」
「宇部とは遠いのう! お父さんひとりスッポカシテ、そんなところへ行かんだっていいじゃないか! お母さんだって、お前ひとりやれば心配されるだろうし……」
「もう、僕だって子供じゃなし……お母様は、あんまりいつまでも、子供扱いされるんで、困るんです! お父様は、わかって下さるけれど……」
「お前が大切《だいじ》だから、アレもつい、度を過ごすのだろう。ま、お父さんは、もう一人前の人間と思うとるから、あまりこまかいこともいわんようにしとる」
 行ってよろしいともいわず、行ってはならぬともいわず、有耶無耶《うやむや》のうちに到頭無理やりに父の承諾を得た時は、どんなに躍り上がったか知れません。まだ煮え切らずに、何も夜になるところを眼がけて行かなくともいいじゃないか! 明日《あした》の朝行けばいいじゃないか! と止める袖《そで》をふり払って私は、父の気の変らぬうちに飛び出してしまいましたが、考えてみればあれからちょうど二年と三カ月……、ジーナもスパセニアも、どんなに待って待って待ち抜いていたかと思えば、逢《あ》わぬ先からもう心は、遠く南九州の空へ飛んでいました。
 長崎急行に乗り換えて、宇部も宇田中もクソもあったものではありません。それからは一直線に長崎へ! この前は、島原から雲仙《うんぜん》へ出て、山道を歩いて東水の尾へ出ましたが、これは偶然のまぐれ当りです。今度はもう道を知っていますから、長崎からまっすぐ小浜《おばま》へ! そして一刻も早く二人に逢いたい一心に、気もそぞろにタクシーを急がせて、大野木村を経て、あの二年三カ月前に、三人で馬を並べて下った四里の道を、今度は逆に東水の尾へ登っていったのです。
 この前のとおり、大野木を出端《ではず》れるともう、人っ子一人の姿も眼に入りません。登るに従ってやがて車の左側に、例の混凝土《コンクリート》の溝渠《インクライン》が蜿蜒《えんえん》と列《つら》なっているのが見えます。山の陰に隠れたり、また姿を現したり、さらに半道ばかりもいったところで、道は一町ばかりこの溝渠《インクライン》と並行して走ります。そして一段低く、溝渠《インクライン》の中は、車窓から見下ろせます。
 おや! と私は眼を瞠《みは》りました。この前三人で水遊びをしたのは、六月の始め頃、飛沫《しぶき》を浴びるとまだ鳥肌だつ頃だったのです。今は七月も過ぎて八月の五日……茹《うだ》るような暑さです。溝渠《インクライン》はさぞ満々たる水を湛《たた》えて走っていると思いのほか、なんと一滴の水もなく、カラカラに乾き切って混凝土《コンクリート》の底は、灰色の地肌《じはだ》を見せているのです。しかも底には処々黒い土がこびりついて、そこには雑草が生《お》い茂っているのです。ということは、ここ半年にも一年にも、水なぞは一滴も通ったことがないという証拠です。どうしたんだろう? と私は名状し難い不思議な気持に打たれました。
 溝渠《インクライン》はまた道から離れて、やがて山の向うに入ってしまいました。そして、車はいよいよ雑草の茂るに任せた、高原地帯へ踏み入って来ました。右手|遥《はる》かに海が咆《ほ》え、やがて断崖《だんがい》の上に張りめぐらした鉄鎖《てっさ》らしいものが眼に入ってきます。
「そうだ! そこを左の方へ曲って……もうちょっと行ったところで……そこだそこだ! そこを右手へ曲って、もう一度左へ行って……」
「この辺にゃ、誰も住んじゃいねえんですかい? ……酷《ひど》く荒れたところですな……こんなところは来たこともないが、旦那《だんな》、こりゃ何方《どなた》かの、地所内
前へ 次へ
全50ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング