ず》んでいました。ただガヤガヤと目眩《めまぐる》しく雑踏して、白昼夢のように取り留めもない騒がしさばかりです。
 姿を見失った淋《さび》しさは、食い入らんばかりの寂寥《せきりょう》を伝えてきましたが、もともと、九州の山の中にいるジーナが、こんな東京の真ん中になぞ、いるはずもないことですし、いわんや、東京へ来るという一言の挨拶《あいさつ》もなしに! やっぱり心の底で考えてるから、こんな錯覚が起るのか知ら? と、苦笑しいしい帰って来た時の気持を、今でも忘れることができません。

      九

 が、苦笑はしても、ジーナが東京にいるはずがないとは思いつつも、今でもその時のことを思い出しさえすれば、どうしても私にはあれが単なる私の幻覚や人違いだったとは、絶対に考えられないのです。キラキラした髪……挙措《ものごし》、恰好《かっこう》……ちらと横から見た、睫毛《まつげ》の長い眸《め》……優しい頤《おとがい》……決して決して、私の幻覚や見誤りなぞでは、ないのです。しかもジーナが東京にいるはずはなく、こんな奇怪なことがまたとあり得ることでしょうか?
 早速私は、大野木郵便局気付で、ジーナへ電報を打ちました。まだそこにいるかどうか? そして返事は電報でなく、手紙で欲しい! と父母の眼を憚《はばか》って書いてやりました。が、いくら待っても到頭返事は来なかったのです。しかも、その返事も来ないうちに……無理にコジツケテ、ジーナはあるいはその時の私の幻覚だったかも知れないとしても、それならばその電報の返事も来ないうちに、またもや起ったもう一つの不思議な出来事は、それも私の幻覚なり錯覚だと、いうことになるのでしょうか?
 父はまだ銀行から帰らず、母もその時どこかへ出かけていました。そして、そろそろ夕闇の迫る頃だったと思います。私はテラスの椅子《いす》に凭《もた》れていました。バタバタバタバタと小走りに何だか玄関の方が、騒がしい様子です。
「何だい? 幾! どうしたんだい?」
 と私は、廊下を通りかかった女中|頭《がしら》の幾に聞いてみました。
「何を騒いでるんだい?」
「厭《いや》でございますねえ、若様!」
 と幾は恐ろしげに首を竦《すく》めました。
「若い女が泣きながら、お邸《やしき》の中を覗《のぞ》いてるんだそうでございますよ」
「若い女が? どうしてだい?」
「さ、どうしてでございましょうか? 二、三日前にも、薄闇《うすぐら》くなってから門の前に立って、じろじろお邸の中を、覗き込んでたそうでございますがね。……またその女が覗いてるとかって……みんなで、騒いでるんでございますよ」
「……へえ! フウン」
 と頷《うなず》きましたが、別段私の心を打つ何ものでもありません。
「とても綺麗《きれい》な、混血児《あいのこ》のお嬢さんですとか……」
「何? 混血児?」
 途端に私は椅子《いす》を蹴《け》って躍り上がりました。いつかのジーナを、思い出したのです。
 ジーナが来ている……私に逢《あ》いたくて、泣いている! テラスを飛び降りて、奥庭の柴折《しお》り戸《ど》を突っ切って、どこをどうして門の砂利道まで躍り出たか覚えがありません。夢中で飛び出して、門の柱に身を寄せた女と眼が合った途端、おう! スパセニアだ! と私は大声を上げました。ジーナではありません、スパセニアだったのです。
 しかもそのスパセニアが、私の姿を見ながら、確かに私と真正面《まとも》に顔を合わせながら、懐かしむどころか! 涼しい眸《ひとみ》に、憤りとも怨《うら》みとも付かぬ非難の色をうかべて、涙ぐみながら唇を噛《か》み締めて、じっと睨《にら》み付けているのです。
「スパセニア、スパセニア!」
 と私は門前へ躍り出しました。が、不思議にも! その時はもうスパセニアの姿は、掻《か》き消すように、見えなくなってしまったのです。
「スパセニア! スパセニア!」
 と狂気のように私は、右手の坂を駈け降りて見、また左手の坂を駈け降りて見……私の家は、三番丁と五番丁と両方の坂の上に建っている、高台です。が、何としてもスパセニアの姿は、見当りません。ただ、ひたひたと濃い黄昏《たそがれ》ばかりがあたり一面に垂れ込めてくるばかりでした。
 が、今一瞬の間に顔を合わせたスパセニアの映像だけは、網膜深く刳《えぐ》り付いて、忘れようとしても忘れられるものではありません。上品な黒のアストラカンの外套《がいとう》を恰好《かっこう》よく着こなした、スッキリとした姿! 屹《き》っと見据えていた切れ長な眸許《めもと》……口惜《くや》しそうに涙ぐみながら、睨《にら》み付けていた姿!
 なぜスパセニアは、私を睨んでいたのだろうか? 何を私は、スパセニアに怨まれるようなことを、したというのだろうか? ともかくジーナもスパセニアも
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