オホホホホ、と今にも笑い出しそうに、悪戯《いたずら》っぽそうな声でしたけれど、その悪戯っぽい声の中に何か妙に、淋《さび》しさが籠《こも》っているような気がしました。
「……ジーナも、仲よくして上げてね……わたし、ジーナを幸福《しあわせ》にして上げたいの……学校も何も止めたのに、わたし本が読めるようになったの、みんなジーナのお陰ですわ。……ジーナの恩は、一生忘れませんわ……ジーナと、仲よくして頂戴《ちょうだい》ね……」
「僕のできることは、何でもしますけれど……でも……僕は貴方も、好きだな……貴方のような方も、大好きだな……」
 これはほんとうです。決して、ウソをいったのではありません。優しいジーナも好きですけれど、わたしは駄目、何にもできないのといってるくせによくできるという、勝気のどこかに淋しげなところのあるスパセニアも、ジーナに負けず劣らず好きなのです。
 いつかジーナのいったことを、思い出しました。日本文字はジーナよりもっと読めないけれど、頭がよくて本国語や仏蘭西《フランス》語ならば、今ではどんなムズカシイ本でも読みこなせて……そして作曲も馬の調教にもすばらしい天分を持って……もう今からでは遅いけれど、あれだけのすぐれた天分があったのに、戦争でこんな辺鄙《へんぴ》なところに引っ込んで、才能を磨かせられなかったのが残念ですわ……ほんとうに残念ですわと、いつかジーナのいったことを思い出したのです。
 しかもそれをいうとかえってスパセニアの方が、ジーナを慰めてくれるというのです。ピアノやヴァイオリンの奏法なら独学ではできないかも知れないけれど、作曲なら独学だって、山の中に住んでたって、できるわ。べートゥヴェンは聾《つんぼ》になっても、作曲したわ。バヴロヴィッツは盲目《めくら》で作曲家になったわ、わたしもなるわ……ひとりで勉強して山の中で作曲家になってみせるわ……。
 バヴロヴィッツというのは、ユーゴ一といわれる作曲家だそうです。海風に髪を嬲《なぶ》らせている、繊《ほ》っそりとしたスパセニアの姿を眺めているうちに、私は勝気なくせに淋しそうな娘の、美しいからだを力一杯抱き締めてやりたいような、またいつかのジーナに対するような熱情を感じました。
「ピアノができなくたって、学校なんかできなくたって、いいじゃありませんか、かまわないじゃありませんか! 貴方《あなた》は綺麗
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