が、その瞬間、また突然頭に閃《ひらめ》いたのは、ゼヒゼヒイラシテクダサイ、オマチシテオリマスという葉書も、そのまた前の葉書も手紙も、ことごとく東京で、ジーナやスパセニアの姿を見た以前のものばかりで、それ以来は何にも受け取っていないということだったのです。
家が焼けたことといい、殊《こと》に焼け跡や、例の溝渠《インクライン》に夏草の茂っていたことといい、それらに結び付けて、何かジーナやスパセニアの身の上に間違いでも起っているのではなかろうか? と、急に、いても立ってもいられぬ不安な気が起ってきたのです。
道後を夜|発《た》って、東水の尾へ着いたのが翌々日の朝の九時頃でした。眩《くるめ》かしい太陽のかんかん照りつけている長い夏の一日を、どんなに夢中になって私が、その辺一帯を足を棒にして歩き回ったかは、到底先生にも想像していただけないであろうと思われます。
いつか姉妹《きょうだい》に最初に案内された厩舎《きゅうしゃ》へもいってみました。これは以前のままに残っていましたが、もうそこに馬は、一頭もいませんでした。ガランとした煉瓦《れんが》建ての厩《うまや》のみが、真昼の直射を浴びて立っているばかりです。厩舎に付属した和室には、馬丁《べっとう》の福次郎が住んでいると聞いていましたから、そこの戸も引き開けてみました。が、誰も人の住んでいるけはいはありません。キチンと片付いて、何一つ道具とてもない黴《かび》だらけの琉球畳《りゅうきゅうだたみ》だけが、白々《しらじら》と光っているばかりです。
ジーナと語り合った柳沼へも、足を運んでみました。湖の面《おもて》は、相変らず肌寒い水を漫々《まんまん》と湛《たた》えて、幽邃《ゆうすい》な周囲の山々や、森の緑を泛《うか》べて、あの自家発電用の小屋も、水門の傍らに建っています。が、しいんと静まり返って、もちろん、人っ子一人の姿もあるものではありません。湖畔には、朽ちた巨木があの時同様影を浸して、そこに凭《もた》れて疲れをやすめていると、あの時、こうして一緒にかけて、故国《くに》のユーゴの話をしてくれたジーナの優しい俤《おもかげ》が映ってきます。同時に、馬で草原の彼方《かなた》から駈《か》けて来る、上気したようなスパセニアの姿も……。
ジーナ! スパセニア! 僕だよう、やっと訪ねて来たんだよう! と、声を上げて叫びたいような気がしてきます
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