悔しております」
と私は、わざと笑って見せた。
「しかし、もうこうやって伺っているのですから、そんな済んだことなぞはどうでもよろしいじゃありませんか! 私の方でも勘違いしていたことがあり、貴方《あなた》の方にも、御意志の伝わらなかった点があったでしょうが、済んだことはもう、お触れにならないで、それより私にどういう御用がおありになるのか? それを伺って、できることは喜んで、致そうと思っています。御用を、仰しゃってみて下さいませんか」
「そういって下されば……この上もありませんけれど……」
と病人は、天井に眼を投げながら、咳《せき》こんだ。ともかく病人のいうのには、人に話したら間違いなく、一笑されるであろうけれど、しかし自分だけには絶対に、笑うことも打ち消すこともできぬ、不思議きわまる出来事がある、というのであった。不思議というか恐ろしいというか? 病気になって以来まる二年間、こうして寝ていても一日として、その出来事は頭から離れぬ。
いいや、離れぬどころか! この半年ほどは、ほとんど四六時中……殊《こと》にこの頃は死期が迫ったとみえて、一時《いっとき》たりとも脳裏を去ったことのない、恐ろしい出来事がある、というのである。おそらく誰に聞かせても、こういう話を真実としては、受け取ってくれぬであろう。偶《たま》に、受け取ってくれる人があるとしても、おそらく顔色変えて逃げ出してしまうくらいが関の山であろう。事件の性質上、今日まで父母にもヒタ隠しにしていた話だというのであった。
それで今まで使いを出したり、看護婦に頼んで手紙を書いてもらったり……それがためにかえって、自分の意志も伝わらなかったが、先生ならばこういう話を聞いて下さっても、決して笑いもなさらなければ、逃げもなさらないで、きっと親身になって聞いて下さるに違いないという気がする。それが一度先生にお眼にかかって、とっくりとこの話を聞いていただいて、自分もこの世に思い残すところなく安心して行くところへ行きたいと思っていたと、こういうのであった。
要領を掻《か》い摘まんでみれば、大体、こういうことになる。が、そうかといって、この話を聞いていただいたからとて、今日先生に小説に書いていただきたいと思うのでもなければ、また世の中にこういうことがあるものかないものかなぞと、先生に質疑したいと思っているわけでもない。先生がお書
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