は堪《たま》らなくなって祖母の袂《たもと》の中へ顔を突っ込む。
「ハハハハハハいいんだよ、いいんだよ、もう話はおしまいだよ。
 お前があんなところへ行きさえしなければ、そんなに怖いものは出て来ないのだよ」
 と祖母は私の頭を撫《な》でて、怖い話を止めにするのでしたが、全身真っ黒に焼け切ってから、歩き出して、ボロボロの灰になった男というのは、何もあながち、棚田の仕置き場の僧侶に限った話ではありません。後年、私が読んだ講談本にも、豊臣秀吉の家来で、泉州堺の町を焼き払った何とかいう豪気な侍が、火焙《ひあぶ》りの刑に処せられた後、眼も鼻も口もない真っ黒けな焼死体になってから歩き出して、倒れたら粉々の灰になったということが出ていたような気がします。こういう怪奇な伝説に、奇怪な物語はつきものかもしれませんが、しかし別段祖母がウソ飾りをつけ加えているらしくもないのです。
 いずれにせよ、私が祖母から聞かされて怖がっていた、四、五十年以前のあの上小路あたりの淋《さび》しい景色を思い出しますと、祖母の話してるのは、いわんや、それからさらに百年も二百年も昔のことであってみれば、昼間でも狐《きつね》の啼《な》きそうな、侘《わび》しい山里の武家屋敷の中には、そういう横暴な家老もあれば、また腰元や僧侶がなかったとは、一概には言えぬような気もするのです。が、そういう気味の悪い因縁のついた恐ろしい家の中に育ちながら、平気で暮している髪の真っ黒な眼の涼しい棚田晃一郎という年下の友達を、何か超自然的なもの……いわば神秘に包まれた武家屋敷の中の若様といったような気持で、眺《なが》めていたことだけを今もハッキリと覚えているのです。

      二 姉の死

 年齢に懸隔がありますから、そうしょっちゅう一緒に遊んでいたというのではありませんが、時々は祖母の戒めも忘れて、棚田の家の奥深くはいり込んで近所の子供と一緒に鬼ごっこなんぞをして遊んだこともあります。そして遊びほうけて、野原へ走り出て、池の端の大木のうつろなぞに隠れているうちに、水の面に薄《うっす》らと夕靄《ゆうもや》が漂って、ゴウンゴウンと遠くから鐘の音なぞが聞こえてきます。途端にこの辺に棚田という屋敷はありませんかい? と耳許《みみもと》で細い声がしたような気がして……今外へ飛び出せば鬼に捕まるということも忘れて思わず表へ躍り出す……。
 そうした幼時の思い出の数々を私は持っています。が、村の小学校の四年生の時、父が東京の本省へ転勤になったために、この草深い田舎の生活を棄てて私は東京へ出て来ました。その後二年ばかりもたつと私はさらに父の転任につれて長野へ行き、前橋へ行き、浦和へ行き、この浦和で祖母は七十六歳の高齢で世を去ってしまいました。もちろん大村を離れて以来、口へ出してどうのこうのと、棚田のうわさを言ってたわけではありません。が、恐怖は身に沁《し》みていたとみえて、大村を立ち去ったことを――というよりも上小路の家を立ち去ったことを、しみじみ喜んでいる風に見えました。
「そんなことをいうと、お前はまたお祖母さんをバカにするかもしれないがね。あの時分は夜が明けても、ほんとうに何だか鬱陶《うっとう》しい厭《いや》な気持がしてね、気のせいかもしれないけれど誰の顔を見ても何だかこう……気のめいりそうな憑《つ》きものでもしたような顔をして朝から日暮れ方みたいな気がしたよ」
 と心から吻《ほ》っとしたように、祖母はザブリザブリと湯槽《ゆおけ》の中で顔を洗いながら念仏を唱えています。
 さて、私が絶えて久しい棚田の晃一郎氏に逢《あ》ったのは、それから何年くらいもたった時分だったでしょうか? その頃には、父も退隠して、最後の任地であった気候の穏やかな静岡の郊外で、悠々と余生を送っていました。私も大学を卒業して大学病院の実習も終り、一人前の医師になって、久しぶりで静岡の父母の家へ遊びに行っていた時ではなかったかと思いますが、一遍お訪ねしろ、お訪ねしろと母からもやかましく言われていますが、なかなかそんな暇もないんですからと、夏休みで大村へ帰る時にわざわざ晃一郎氏が訪ねて来てくれたことがありました。
 子供の時分は色白な顔をしていたようでしたが、今逢う晃一郎氏は痩《や》せ形の浅黒い見るからに凜々《りり》しい一高の学生になっているのです。文科の乙二年生だということでしたが、お父さんはお丈夫《たっしゃ》か? お母さんもお変りはないかなぞと父母も珍しがって歓待に努めました。長らく県下の郡長なぞを勤めていた、お父さんはもう五、六年も前に世を去っていると聞いて驚きましたが、話を聞いたところでは、九州の辺鄙《へんぴ》な城下町の、殊《こと》に郊外の昔の武家屋敷なぞには大した変化もなく、昔のように淋《さび》しいあの大きな屋敷には、今では母親と女中と小作人夫婦がいるだけだということでした。慣れているとみえて、晃一郎君は別段淋しそうな様子もしていないのです。
 どうせ暇で遊んでいましたから、私も晃一郎君の話相手を勤めて、幼い日を送った思い出の土地のことなぞを何くれとなく語り合ってみましたが、今でも私の記憶に残っているのは、晃一郎君自ら自分の家に絡まる、昔からの妙な伝説に触れた時のことでした。
「どういうのか僕の家には、昔から色んなうわさが伝わっていましてね、あすこの家は一代に変死人が必ず一人は出るとか、幽霊が出るとか」
 と、慨嘆的な幾分|嘲《あざけ》るような調子でした。もちろん私たちは大村土着の人間ではありませんし、まさかそんなうわさ話なぞは知らないと思ったのでしょう。が、さりとて別段それ以上のこまかしいことを言い出すでもなく、何かのはずみから、ただ青年らしい若々しい慨嘆口調で言い出したに過ぎないのです。
「でもオヤジだって、そんな妙な死に方なんぞしてやしませんし……ですからそんなバカバカしいうわさよりも、今でも僕にわからないのは……」と言おうか言うまいかという風に青年は考え深い眼をしました。
「姉の死んだことなのです」
「へえ、あなたに姉さんがおありでしたか? ちっとも知りませんでしたねえ」
「あったんですよ、子供の時から脇へ預けてありましたから、あなた方は御存知なかった」
 と、青年は淋しげにほほえみました。親の許《もと》へ帰ったのは、その姉が十三の年だというのですから、もう私たちが大村を立ち去った後のことだったのでしょう。なぜよその家へ姉が預けてあったかなぞということも、もちろん青年は言いません。
「……ちょうど姉が十七の年だったんですがね。僕は姉が父とそんな深い諍《いさか》いをしたということも知りませんでしたが、ある朝僕が起きて見たら、家の中がいつもと違っているんです。母も座敷にいなければ、父もいません。おまけに、小作人夫婦もいないのです。築山《つきやま》の向うで……池の方で人声がするような気がして、僕は起き抜けのまま、寝巻き姿のままで行って見たんです。父も母も小作人夫婦も、みんなそこにいるんです。池の中に大きな石が、二つ三つ顔を出しています。父はその石の上に乗って水の中へ顔を浸けんばかりに、池の中を覗《のぞ》き込んでいるのです。母は水際にしゃがんで、眼頭《めがしら》を抑えています。そして小作人の妻が寄り添って、頻《しき》りに母を慰めているのです。小作人は長い竿《さお》を持って、池の中を歩き回って、頻りに竿を突っ込んで、手応えをはかっているのです」
 両股《りょうもも》のあたりまで、真っ青な水の中へ浸けて、腹や足一杯に藻草《もぐさ》を絡ませながら、竿を立てていた小作人が、その感触でわかるものでしょう、突然に顔色を変えました。見ていた父も母も小作人の妻も、その方へ駈《か》け寄って行きました。今でも息詰まるようなその一瞬間を、青年は忘れることができないのです。しかも、次の瞬間、小作人は真っ青な顔――池の水よりもまだ真っ青な顔をして、そうっと竿を岸の方へ何か重い物体を押しやっているように……たちまち竿を棄てて、小作人の手を合わせるのが見えました。
「お、お前!」
「お、お嬢様!」
 金切り声が一時にわき起って小波《さざなみ》をたてながら、そこへ姿を現したものは! ……はだけた着物の間から白い足……手……蛇《へび》のように解けた髪の中に、閉じた眼が……泣き伏しながら着物の濡《ぬ》れるのも厭《いと》わずに飛沫《しぶき》を挙げて屍骸《しがい》に縋《すが》りついた母と小作人の妻と……。
「み、美代や、どうしてこんな浅ましい姿に」
「お嬢様、なんてお情けない、お嬢様! そんならそうとなぜ一言……」
 と、おろおろ声の中に、今でも青年の記憶に残っているのは、父が母と小作人の妻の背後に突っ立ったまま、冷然とそれを見下ろしている姿だったのです。冷然といったのでは、旨《うま》く言い現せなかったかも知れません。それよりも青年が今までに見たこともないような、烈《はげ》しい叱責《しっせき》を加えている姿といった方が、この場の光景にふさわしい言葉だったかも知れません。
「バカもの、バカもの、この大バカものめ! 恥を晒《さら》しおって! それが親への見せしめか? 死んで親に面当《つらあ》てしようという気か? 厭《いや》なら厭だと、なぜ初めから言わん? 気が向かんとなぜ言わんのだ!」
 しかも父は涙を溢《あふ》らせながら、じだんだ踏んで口惜《くや》しそうに、呶鳴《どな》りつけているのです。ふだん姉を可愛《かわい》がって、荒い言葉一つかけたこともない父が、人前もなくこんなにも罵《ののし》りつけているのは、姉の死を悼《いた》む父の痛恨の一種だったかも知れません。
 しかも、突っ立って呶鳴っている父を制止しようとするでもなく、姉の屍骸に取り縋って泣いている母と、小作人の妻と……なぜ姉が死んだのか? そしてなぜ父があのように怒り切っているのか? それらの原因は一切わからぬながらに、青年には今でもまだその時の悲惨な光景を、忘れることができなかったのです。寒い朝でした。西九州ではめったになく酷《ひど》い霜の降った、寒い朝だったことまで、ありありと頭の中に刻み込まれていました。
「そして今でもまだあなたは、なぜ姉さんがそんな自殺をなさったのか、そのわけがわからないのですか?」
「わからないんです。迂闊《うかつ》なようですが、今でもサッパリ見当がつかないんです。淋《さび》しそうな顔はしていても、父でも母でも姉のことは決して口にしませんし……元から無口な父でしたが、それ以来、一層口数が尠《すくな》い人になってしまって……余計なことを言い出して、親の暗い顔を見るのは厭ですから、僕も何にも言いませんし……おまけに小作人の妻まで、間もなく病気で死んでしまったもんですから……」
「そうですか、あなたにお姉さんがおありだということも、私は知りませんでしたし、ましてそういう亡くなり方をなさったということも……あなたが一高へおはいりになった時は、さぞお父様もお喜びだったでしょう」
「父はそのずっと前に亡くなっているのです。姉が死んでから、三、四年もたってから死んじまったんですが」
「それからお母様とずっとあの家に」
「そうです」
「へえ! よくまあ淋《さび》しくないもんですね」
「馴《な》れてますから何ともないですよ」
 と、青年は含み笑いを洩《も》らしました。そしてこういう哀れっぽい話は、止《や》めてしまいましたが、およそ、これらの話も、晃一郎君は何も自分から順序だて、私に話して聞かせようとしたのではありません。私の問いに答えて重い口からポツリポツリと……それを私が今記憶を纏《まと》めてみたに過ぎないのです。
 総じてこの青年は、元気そうな表面に似ず、内気な性質らしく、年にも似合わず落ちついていましたが、そのせいか時に陰気くさくさえ見えることがありましたが、そうした性格が内の面にこもっている憂鬱《ゆううつ》や、悲しみなぞといった心の動きを、あまり表面へ現さなかったものではないかと思われました。が、いずれにせよ、話を聞きながら、その時私は、青年の姉が入水《じゅすい》した池が、昔仕置き
前へ 次へ
全6ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
橘 外男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング