に暮していられたが、その間も旦那様は毎日のようにピアノに向っていられたというのです。
「何をそんなに弾いているんだね?」
「さあ、わし共にゃサッパリわからねえでがすが」
 と爺やは歯のない真っ黒な口をあけて笑いました。
「旦那様は譜をお作りになるでやして……それでピアノをお弾きになるでがす」
「へえ、棚田さんがねえ――」
 と相槌《あいづち》は打ちましたが、もちろん私にも音楽の趣味も何もあったものではありません。ただ裁判長として、松島事件を裁いた厳《いか》めしい人の隠れた一面を覗《のぞ》いているような気がして、頷《うなず》いただけでした。
「せっかくお訪ね下せえやしても何のおかまいもできましねえで……お上がんなすって、お茶の一つも上がって下さりゃ、旦那様もお喜びになると思うだが」
 勧める老爺に別れを告げて、やがて私はまた竹藪《たけやぶ》に沿うた坂を下って、田圃《たんぼ》の傍《そば》の庚申塚《こうしんづか》のある道や、子供の頃|笹《ささ》っ葉《ぱ》を持って蛍《ほたる》を追い回した小川の縁へ出て来ましたが、立ちどまって振り返って見ると――眠ったような森や石垣の上に、この四、五十年来、何一
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