るだが」
「そうそう名古屋、名古屋……そういう知らせが来ていたが……」
「失礼でやすが、どなた様でいられやしょうかにイ?」
「なアにわたしは別段用のあるものじゃない。昔お宅の御主人と友達で、ついこの先に住んでたものだが……」
「……では今東京でお医者様をしてござらっしゃるとか……?」
「そう……その医者は私なのだが、棚田さんにでも聞いたことがあるのかね?」
「ありやすだとも! そうですか、そりゃようこそお訪ね下せえましたが、さ、ちょっくら、ま、お上がり下せえやして……」
棚田氏からでも聞いていたとみえて、今雨戸を開けるから、上がってお茶でも一つ召し上がってと、しつこく勧めるのを断って、その辺に咲いている寒椿《かんつばき》の横手から裏庭へかけて、私は足を運んでみました。石垣の下から生えている老木の梢《こずえ》や孟宗竹《もうそうちく》の隙間《すきま》から、私の住んでいた家なぞは、遥《はる》かの眼下に小さく俯瞰《ふかん》されます。
老爺の言うのには棚田氏はこの昔の屋敷に並々ならぬ愛着を感じて、今でも少し役所の休みが続けばスグに奥さんを連れて帰ってきて、時代のついた屋敷の生活を楽しんでいるということだったのです。ですから留守を預かる爺《じい》さんもいつ主人が帰ってもいいように年中掃除だけは怠りなくしていると言うのでした。
「いいよ、いいよ、開けてくれなくても……別段用があるわけではないのだから……スグに帰るんだから」
が、どうせ風を入れるために毎日一度は開けるのだからと、爺さんは一間一間雨戸を繰っています。靴も脱がずに外から覗《のぞ》き込むのでしたが、あたりの森閑とした静けさといい、古びた昔の匂《にお》いといいいかにも昔祖母の語った怪奇な話が思い出されて、何か鳥毛だつような気持を感ぜずにはいられませんでした。昔の家というものは構えが大きくて、木口ががっしりと作られている代り、無頓着《むとんちゃく》な採光や通風のせいか、言い知れぬ暗さが漂っているもんだなと思いました。眺《なが》めたところを大体見取図に描いて見せましょう。この友達がどんなに淋《さび》しいところを好んでいたかということが、読者にもお飲み込みになれるでしょうから。
[#棚田氏の屋敷の見取図(fig50077_01.png)入る]
私の見取図で御覧になっても、読者には別に陰気さがお感じになれぬかも知れません。
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