ように冷たい物が触ってきた。場合が場合だけに思わず竦然《ぞっ》として振り向いたが、そこには君太郎が大きな眸《め》に涙を一杯溜めて、訴えるように私を振り仰いでいたのであった。
「見てたのかい?」
 と聞いたら、
「ええ」
 と睫毛《まつげ》をしばたたいたが、
「助かるでしょうか? どうかして助けて上げたいわ」
 と潤《うる》んだ声で呟《つぶや》いた。
 無言で頷《うなず》きながらふところの中で君太郎の華奢《きゃしゃ》な手を握りしめていたが、私もこの時ほど君太郎をいとおしく感じたことはなかった。
 この世の中というものは、何時《いつ》思いも掛けぬ災難が降りかかってくるかわからぬ、一寸先は闇の世界だから、なまじっか、野心なぞ起さずに、もう東京へもどこへも行かないで、どこか北海道の涯《はて》へでも行って君太郎と一緒に世帯を持って生涯を送ってしまおうかと、胸の迫るような感慨に打たれたのであった。
 そして、今手を握り合って佇んでいる君太郎と私との関係が芸妓とお客とか、芸妓とその情人とか言ったようなものとはどうしても考えられず、私にはまるで頼りどころない、妹の手でも曳《ひ》きながら、この厳粛な人生の出来事を凝視《みつめ》ているような心地がしたのであった。そんな思いを胸一杯にたぎらせながら、私はそこに茫然《ぼうぜん》と突っ立っていた。
「もう運ばれて行ってしまったわ。さあ、はいりましょうよ。ね」
 と、不仕合せな人たちの方へしゃがんで掌を合せていた君太郎に促されて、私もようやく座敷へ戻って来たが、酷寒北海道の真夜中はおそらく零度を五、六度くらいは下っていたろうと思われる。
 今までは気もつかなかったが、部屋へ戻って来ると一時に寒さが身に徹《こた》えてきてブルブルと胴震いがして、急には口もきけなかった。しかも口がきけなかったばかりか、もう眼が冴えて、床へ潜り込んでもなかなか眠れるものではなかった。ただ眼先にちらついてくるのは、たった今のあのフラフラと立ち上った時の顔も頭も区別のつかないノッペラボウなお内儀さんの姿ばかりであった。
「……どうしても眠れないわ。ちょいと! 起きて下さらない? ね、起きてお酒でも飲んで話してましょうよ」
 と、これもいったん床へはいった君太郎がムックリ起き上ったのを機会《しお》に、私も蒲団を離れてしまった。
 ごうごうと音だてて燃え盛っているストーヴの合間合間に耳を澄ませると、表はまだざわめいて、階下《した》でも起きて話しているらしく、まだみんな異常な出来事の昂奮から落ちつきを取り戻していないらしい様子であった。
 そしてやっと酒の仕度を整えて来た女中は、真っ青な動悸《どうき》の静まらぬ顔をして、
「とんだお騒がせをしましてん」
 と自分が粗相でもしでかしたかのように、謝った。

      四

 この女中に聞くと、怪我人たちはすぐ側の池田病院とかいうのへ運ばれて行ったが、三人とも全身焼け爛《ただ》れてとうてい命は取り留め得なかろうということであった。
 発音の聞きとりにくいこの地方の浜言葉であったから、明瞭にはわからなかったが、すぐ七、八軒先の向い側の小さな時計屋の亭主とお内儀さんと亭主の妹との三人で、夜業《よなべ》をやっていながらふとした粗相で傍に置いてあった揮発《きはつ》の大罐に火が移って、三人とも頭からその爆発を浴びてしまったというのであった。亭主がお内儀さんの火を揉み消そうとせず、お内儀さんが亭主の妹の火を消そうともせずまた妹が兄の火を揉み消そうと苛《あせ》らないで三人とも、それぞれに自分たちの身体についている火さえ消そうと努めたならば、まさかあんな大事にもならなかったであろうが、あんまり夫婦兄弟の情合の深いのもこういう時には善《よ》し悪《あ》しだというふうなことを、まだ震えの止まらぬらしいこの女中は、幾分腹立たしそうに朴訥《ぼくとつ》な言葉で話してくれた。すんでのところ火事になりかかったのをその方だけは隣りの乾物屋の親父とかが揉み消してしまったということであった。
「まあま、お酌もせんどいて、えろう済まんことしてしまいましたけん。冷えて拙《まず》うなりましてん?」
 と、女中は気がついて銚子を取り上げたが、別に酒がそんなに飲みたい気もしなかった。
「いいよ、いいよ、自分でするから」
 と女中を帰した後で、冷えた盃を持ったままメラメラと燃えしきるストーヴの焔を眺めながら、通り魔のような夜前《やぜん》の出来事を考えていると、
「世の中なんて、何時《いつ》どんな災難が降って湧くかわからないものねえ、やっぱりあたし、東京へなんか行って出世してもらわなくてもいいわ。こっちで一緒に暮しましょうよ。人の命なんて何時どんなことになるかわからないんですもの」
 とふだんの勝気にも似ずしみじみ感じたように、しかし幾分甘えた口調で君太郎が言った。が、それでも私が無言でストーヴをみつめて考え込んでいると、ふと気を変えたように、「明日発つ時、その池田病院とかいうのへ、ちょっと玄関だけでも見舞って行きましょうね。そうしておけば、後まで嫌な思いが残らないで済みますから」
 と、しんみり言った。
「ああ、そうしよう! そうしよう!」
 と、私も賛成した。君太郎に勧められるまでもなくそうでもしなければ、今の私にも到底このままでは、この惨《むご》たらしい記憶に幕が降ろせそうもないのであった。丸髷には結っていても一見誰にでもすぐそれとわかる君太郎なぞを連れてそんなところへ顔出しするのは、いかにも人の不幸のところへ心ない遊蕩児《ゆうとうじ》の気紛《きまぐ》れな仕業《しわざ》と人に取られるかも知れなかったが、思う人には何とでも思わせておいて、明日はぜひそうしておいてからこの留萌の町を去ってしまおうと考えていたのであった。
 床へはいってみたり、ストーヴの前へ座を占めてみたり、そして東京へ行くとか行かないとか、ポソポソと二人でしゃべり合ってとうとう私たちは一晩中眠らずじまいであった。
 翌る朝この妙な因縁の町を発つ時には、もちろん病院の門口まで私たちは見舞に行った。停車場から二、三町足らずの距離であったが、町の世話役らしい人々が多勢詰めかけて、病院の入り口はごった返していた。そしてそこには私たちの泊った丸源の亭主もいたが、眼敏《めざと》く私たちの姿を見つけると大急ぎで飛出して来た。
「とんだ御迷惑をお掛けしまして……またどうぞお懲《こ》りなく、ぜひお近いうちに」
 と、頭を下げた。それにつれてその辺にいた人々も何かは知らず頭を下げた。
「とうとういけませんでした。一人残った妹の方も、つい今し方息を引き取りました」
 と亭主は身寄りの者にでも話すかのようにしんみりとそう言った。
 わずかばかりではあったが霊前へ供えてくれるように頼んでおいて、逃げるように私たちはまた停車場へ出て来たが、身を切るように寒い朝の町はしいんとしてまだ人っ子一人通ってもいなかった。もちろんまだ札幌へ引揚げようという気持も起らず、さりとてこれからどこへ行こうと決めていたわけでもなかったが、ともかくやっと汽車が動き出して外《ほか》に相客もない二等車の中でガチガチ震えながら、だんだん遠ざかって行く国境の連山の裾《すそ》にこの不思議な思い出の町を眺めていると、やっと私にも昨夜からの気持が納まって人心地が徐々についてくるような気持がしたのであった。

      五

 ……あれからもう十何年かになる。私はやはり君太郎の留めるのを振り切って東京へ出て来たが、もうそれっきり彼女には逢わなかった。この頃人|伝《づ》てに聞けば、彼女は今では札幌見番でも一、二を争う大きな芸妓家の女将《おかみ》になって、最近では裏の方に新築を始めて、料理屋も始めるらしいという噂であったが、私はこの昔|馴染《なじみ》を思い出すごとに、いつでも決まって忘れ得ぬ留萌の不思議な一夜を思い出さずにはいられなかった。
 そして、留萌の悲惨な出来事を想い出しさえすればきっと決まって美しかった君太郎の俤《おもかげ》を懐かしく想い出す。今年の夏あたりは、ぜひ札幌へ行って、一度その後の彼女にも逢ってみたいと思っているが、逢うのはいいがまたあの時の話が出るかと思うと、それだけはしみじみ逃げたいような気持がする。



底本:「橘外男ワンダーランド 怪談・怪奇篇」中央書院
   1994(平成6)年7月29日第1刷発行
初出:「新青年」
   1937(昭和12)年10月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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