めが聴診器を当てながら聞くから、
「葛根湯です。先生! あの煎《せん》じ薬の葛根湯です。あれを飲ませましたら」
と私が土瓶を見せると、
「葛根湯では中毒を起すわけもないが」
と医者は小首《こくび》を傾《かし》げた。そして、
「ほほう、西洋人でもああいう物を飲むんですかね」
と頻《しき》りに感心した。
「別段熱もありませんね」
と医者は脇の下から体温計を抜き取った。
「どうも、私の見たところでは中毒らしい症状も見えませんがね」
「しかし先生、不思議です、たった今計った時には三十九度からあったんですが」
「三十九度あっても、どうも私の体温計では熱が上がってきませんがね」
と医者が不興気《ふきょうげ》な顔をした。
「その悪漢めが俺に毒《ポイズン》を飲ませたのだ! 人が厭《いや》だと言うのに、無理に毒を飲ませてしまったのだ! あ、手が麻痺《しび》れる[#「麻痺《しび》れる」は底本では「痳痺《しび》れる」]」
「何と言っていられるのです? 大分昂奮していられるようですが」
と医者が尋ねた。
「手が麻痺《しび》れると[#「麻痺《しび》れると」は底本では「痳痺《しび》れると」]言ってるんです」
「可笑《おか》しいね、手が麻痺れる[#「麻痺れる」は底本では「痳痺れる」]わけがないが。……感じますか? あんた、聞いてみて下さらんか、これが感じるかどうか?」
「感じるかと医者が聞いている」
「|この腐れ医者めは何をしていやがるのだ《アウチ ホワッツワ ヂス ブラディ フール ドイング》! 痛くて仕様がありゃせん!」
「痛いと言っています」
「じゃ大して麻痺れてる[#「麻痺れてる」は底本では「痳痺れてる」]わけでもありませんな」
と医者は大笑して、ようやく手の皮を抓《つま》み上げるのを止めた。そして、
「見事な身体ですな!」
とまるで象でも見物するような気持で頻《しき》りに大きな胸幅や逞《たくま》しい腕に見惚《みと》れているのであった。医者は何と言ってると聞くから、熱もないし脈搏《みゃくはく》も普通だしどこも何ともないと言ってると答えたら、
「|こんな頓馬な医者に何がわかる《ホワッ ダ ヘル ヂス クレイジイ ドクター》! |聖路加病院の医者を呼んで来い《コール セントルカス ドクター》!」
と息巻いたが自分でも不思議だと思ったのであろう。手を握り締めてみたり、
「ちょっと俺の体温計《サアモミイタ》を貸してみてくれ」
と私が取ってやった自分の体温計を口の中へ突っ込んでみたりした。
「外国の方だから、自分でやってみんと気が済まんと見えるね」
と医者は詰まらぬことを感心して、クックッと鶏みたいな笑い声を挙げたが、
「やはり、熱はないな。クックッ」
と面白そうに覗《のぞ》き込んだ。
やがて医者が引き揚げて行くと、今まで唸《うな》っていたこの危篤な病人めがケロリとして起き上がってきた。
「君さえ悪勧《わるずす》めしなければ、こんな莫迦《ばか》な目には遭わなかったんだ! 呼ばなくてもいいヘッポコ医者なんぞ呼んで! 見てくれ、ワイシャツなんぞ滅茶滅茶だ! 俺は払わんから医者の金は君が払っといてくれ!」
とプリプリしながら、
「病人に水を持って来てくれ」
とコップを突き出した。
「飲みたかったら自分で行って掬《く》んで来い」
と私も呶鳴《どな》り付けたが、この人の善い大男が私のからかったことなぞは微塵《みじん》も悟らずに、クションクションと続けざまに嚔《くしゃみ》をした顔を眺《なが》めていると、初めて私にも肚《はら》の底から笑いが込み上げてきた。そしてこの一騒ぎ演じた大男も、さすがに今の死に損なった恰好《かっこう》を思い出したのであろう、片眼《かため》を閉《つぶ》って面白くもなさそうな顔をしながらニヤリと苦笑して見せた。
底本:「橘外男ワンダーランド ユーモア小説篇」中央書院
1995(平成7)年12月4日第1刷
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
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