ところなので、世間的にもあまり知られていないらしいが、朝日新聞記者に語るところを傍聴していた私は、思いがけぬところに迷いこんだ幸を、しみじみと感じたものである。
ここではもちろん、近海の魚族の研究を主として行つているそうだが、ウニ[#「ウニ」に傍点]やクモヒトデ[#「クモヒトデ」に傍点]などの研究で学位を得た人たちも、数人ある由、そこでK氏であるが、はじめ彼は研究の結果をさぐり出そうとする記者の問いをはぐらかして答えなかつたが、それでも私たち素人にも分かるようなことを、少しずつ語つて聞かせた。
K氏の研究の対象は、船底に附着するセン[#「セン」に傍点]孔動物である由。クモヒトデ、フジツボ、クサコケ虫等のように、船底に附着棲息して、船の速度を落とし、重量を増して、燃料に影響を及ぼし、船体を害する生物の研究に、その生涯を賭けているそうだが、私はその青年の情熱を、尊敬する。その情熱は、はげしい火を吐くようなものではないが、静かに落付いた情熱である。私などは、もつとも平凡な常識人だから、ともすれば、フジツボなどという瑣小な動物の研究に一生を賭ける人の常識を疑いたくなる。ところが、K氏の話を聞いている中に、いつか私は、それ等学究の徒が、世俗ともつとも縁遠い研究に没頭する所以が、単なる趣味などから出発したものでない、ということを理解しはじめた。尤も船底の舟喰虫の駆除を、毒物塗料によるか、機械的設備によるか、将又アメリカのようにDDTによるかは、彼の研究の分野ではないが、その前提条件として、それ等の生態を研究することは、決して学究の徒の本来の使命から、逸脱するものではない、という信念が、その情熱をかきたてているようであつた。
なお、めすのからだの中におすが棲息するという、ケハダエボシという動物の研究なども、興味あるものであつたが、ことがあまりに専門的にわたると、私たちには、ただなるほどなるほどと、分かつたような顔をするより外はなかつた。
水族館は、ただ形ばかりといつた程度で、特筆するほどのこともなかつたが、一般人の教養と常識を高めるという意味あいから、折角の設備を活用してもらいたいと思つたのは、私だけではあるまい。
葉桜と巨松の間をぬけ、うららかな春光を浴びて、丘陵を少しのぼると、海藻などを乾している漁師らしい家並がつづき、その向こう砂丘の上に、砲台とも覚しい巨大な石碑がある。頼山陽の泊天草洋の詩碑である。
[#ここから2字下げ]
雲耶山耶呉耶越 水天髣髴青一髪
万里泊舟天草洋 煙横蓬窓日漸没
瞥見大魚波間跳 太白当船明似月
[#ここで字下げ終わり]
折角の詩碑が、かつて幅を利かせた忠魂碑かなんぞのように、厳然とでも形容したい石垣の上に、見上げるばかりの構想のものだが、詩人山陽が若し生きていたら、恐らく苦笑するであろう。私がそのような感想をもらすと、同行の記者も同感の旨をつげるのであつた。古今を問わず、詩人の感覚は、威風あたりを払うといつたような、世俗のものではないはずである。堂々というようなものではなく、風雅なものであるはずである。
今朝来、内海は風ないで、いかにも春の海らしい静けさであつたが、ここから見はるかす天草灘は、怒濤逆まくというほどではなくとも、波のうねりも荒く、内海が雌ならば、外海は雄らしい様相であつた。
千人塚は、町はずれの一角にある。俗に首塚ともいうそうだが、側なる百姓に聞くと、凡そ次のように説明してくれた。今から三百年許り前の島原の乱後、斬首された切支丹の宗徒の首一万ばかりを、長崎の浦上と島原の原城と、ここ富岡の三カ所に分けて埋めたという。ところが代官鈴木三郎九郎重成は、民心の動きに非常に敏感で、暗に亡ぼされた宗徒に同情する人々の心情を慮つて、切支丹の供養碑を立てて、そこに埋められた宗徒たちの追善供養をしたという。碑文は、経文からとつたものらしく、すこぶる難解であるが、仏教の教養よりすれば、仏性は賢愚平等にあり、死んでしまえば、たとい鬼理志丹といえども供養しなければならぬ、という意味のようである。ただ切利支丹を、鬼理志丹[#「鬼理志丹」に傍点]としたところなどに、その本質はうかがわれるが、いずれにしても、このような碑を立てた鈴木重成の人物には、共感出来る。記録によれば、
「……重成は郡民の窮状を目のあたりに見ては、哀憫の情を禁ずることが出来ず、承応二年遂に意を決して江戸に上り、直接老中に謁見してるる郡情を[#「るる郡情を」は底本では「ゐる郡情を」]具陳して、減石の正道なることを誠意歎願したが、又もや不許可となつた。この上は一死もつて郡民塗炭の苦しみに代る外ないと、同年十月十五日赤心を披瀝した上向文を遺して、駿河台の自邸で自刃してしまつた」
とある。その人物のほどもうかがわれるし、この供養碑を建てた彼の精神もおよそ納得出来るように思う。
午後四時発のバスだというので、鎮導寺にも立寄り、勝海舟書くところの本堂の柱の和歌というものを見たかつたが、時間がないようなので割愛して、停留所に帰りついた。ところがそれから約一時間つまらない待ちぼうけをくわされ、すつかりくさつてしまつた。
観光地としての条件は多分にもつていながら、一向土地の人々に観光客誘致の熱意がないのは、どういうわけであろう。島原から天草にかけてを、国立公園にするとかしないとか、いろいろ取沙汰されていながら、なかなかその運びにいたらないのは、このような土地の人々の不熱心の然らしむるところか。だが、そのような詮索は、私にとつては、必しも必要なことではない。ともあれ、私はこの地の人々と直接話はしなかつたけれども、観光客としての満足は充分達せられた。それでいてなお、このようなことをいうのは、町に一本の案内標もなく、観光客をめいわくなとばかり、バスの時間などめちやめちやにあしらわれては、折角の美しい天草のため惜しまれるからである。
六時半すぎ、本渡帰着
三月二十五日
早朝五時半起床。風のすつかり落ちた朝の大矢崎の港は、ほんとに背伸びしたくなるほどの心よさである。こういう朝ばかりだつたら、船乗り稼業もわるくないな、と思いながら出港を待つ。
六時二十分出港。船は、爽快なひびきを、島の山々にこだまさせながら、くつきり晴れた朝の空に安坐する雲仙嶽の方に、かじをとつて進みはじめた。
底本:「現代日本紀行文学全集 南日本編」ほるぷ出版
1976(昭和51)年8月1日発行
初出:「九州路抄」日本交通公社
1948(昭和23)年9月15日発行
※拗音、促音が小書きされていないのは底本通りです。
※校正にあたって「九州路抄」(日本交通公社、昭和23年発行)に所収の「天草の春」を参照しました。
入力:林 幸雄
校正:鈴木厚司
2009年3月26日作成
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