がある。頼山陽の泊天草洋の詩碑である。
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雲耶山耶呉耶越  水天髣髴青一髪
万里泊舟天草洋  煙横蓬窓日漸没
瞥見大魚波間跳  太白当船明似月
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 折角の詩碑が、かつて幅を利かせた忠魂碑かなんぞのように、厳然とでも形容したい石垣の上に、見上げるばかりの構想のものだが、詩人山陽が若し生きていたら、恐らく苦笑するであろう。私がそのような感想をもらすと、同行の記者も同感の旨をつげるのであつた。古今を問わず、詩人の感覚は、威風あたりを払うといつたような、世俗のものではないはずである。堂々というようなものではなく、風雅なものであるはずである。
 今朝来、内海は風ないで、いかにも春の海らしい静けさであつたが、ここから見はるかす天草灘は、怒濤逆まくというほどではなくとも、波のうねりも荒く、内海が雌ならば、外海は雄らしい様相であつた。
 千人塚は、町はずれの一角にある。俗に首塚ともいうそうだが、側なる百姓に聞くと、凡そ次のように説明してくれた。今から三百年許り前の島原の乱後、斬首された切支丹の宗徒の首一万ばかりを、長崎の浦上と島原の原城と、ここ富岡の三カ所に分けて埋めたという。ところが代官鈴木三郎九郎重成は、民心の動きに非常に敏感で、暗に亡ぼされた宗徒に同情する人々の心情を慮つて、切支丹の供養碑を立てて、そこに埋められた宗徒たちの追善供養をしたという。碑文は、経文からとつたものらしく、すこぶる難解であるが、仏教の教養よりすれば、仏性は賢愚平等にあり、死んでしまえば、たとい鬼理志丹といえども供養しなければならぬ、という意味のようである。ただ切利支丹を、鬼理志丹[#「鬼理志丹」に傍点]としたところなどに、その本質はうかがわれるが、いずれにしても、このような碑を立てた鈴木重成の人物には、共感出来る。記録によれば、
「……重成は郡民の窮状を目のあたりに見ては、哀憫の情を禁ずることが出来ず、承応二年遂に意を決して江戸に上り、直接老中に謁見してるる郡情を[#「るる郡情を」は底本では「ゐる郡情を」]具陳して、減石の正道なることを誠意歎願したが、又もや不許可となつた。この上は一死もつて郡民塗炭の苦しみに代る外ないと、同年十月十五日赤心を披瀝した上向文を遺して、駿河台の自邸で自刃してしまつた」
 とある。その人物のほどもうかがわれるし、この供養碑を建てた
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