フ毛《け》の赤《あか》い、血色《けつしよく》の好《い》い児《こ》が一人《ひとり》通《とほ》る。こいつに眼《め》を付《つ》けて置《お》いたのだから、急《きふ》に飛付《とびつ》いてやつた。この気味《きみ》の悪《わる》い手《て》で、その口《くち》を抑《おさ》へた。粗末《そまつ》な布《きれ》の下衣《したぎ》しか着《き》てゐないで、足《あし》には何《なに》も履《は》かず、眼《め》は落着《おちつ》いてゐて、別《べつ》に驚《おどろ》いた風《ふう》も無《な》く、こちらを見上《みあ》げた。泣出《なきだ》しもしまいと知《し》つたから、久《ひさ》しぶりで、こちらも人間《にんげん》の声《こゑ》が聞《き》きたくなつて、口元《くちもと》の手《て》を離《はな》してやると、あとを拭《ふ》きさうにもしないのだ。眼《め》は他《よそ》を見《み》てゐるやうだ。
――おまへ、何《なん》て名《な》だと質《き》いてみた。
――ティウトンのヨハンネスと答《こた》へる其声《そのこゑ》が透《す》きとほるやうで、聞《き》いてゐて、心持《こゝろもち》が好《よ》くなる。
――何処《どこ》へ行《い》くんだと重《かさ》ねて質《き》いた。さうすると、返事《へんじ》をした。
――耶路撒冷《イエルサレム》へ行《い》くのです、聖地《せいち》を恢復《とりかへし》に行《い》くのです。
そこで、あたしは失笑《ふきだ》して質《き》いて見《み》た。
――耶路撒冷《イエルサレム》つて何処《どこ》だい。
答《こた》へていふには、
――知《し》りません。
また質《き》いて見《み》た。
――耶路撒冷《イエルサレム》つて、一体《いつたい》、何《なん》だい。
答《こた》へていふには、
――私《わたくし》たちの御主《おんあるじ》です。
そこで、復《また》、あたしは失笑《ふきだ》して、質《き》いて見《み》た。
――おまへの御主《おんあるじ》つて誰《だれ》の事《こと》だ。
答《こた》へていふには、
――知《し》りません。唯《たゞ》真白《まつしろ》な方《かた》です。
此返事《このへんじ》を聞《き》いて、むつと腹《はら》が立《た》つた。頭巾《づきん》の下《した》に歯《は》を剥出《むきだ》して、血色《けつしよく》の好《い》い頸元《えりもと》に伸《の》し掛《かゝ》ると向《むかう》は後退《あとすざり》もしない。また質《き》いて見《み》た。
――何故《なぜ》恐《こは》くない。
答《こた》へていふには、
――何《なん》の恐《こは》いものですか、真白《まつしろ》な方《かた》ですもの。
この時《とき》涙《なみだ》はらはらと湧《わ》いて来《き》た。地面《ぢめん》に身《み》を伏《ふ》せ、気味《きび》の悪《わる》い唇《くちびる》ではあるが、土《つち》の上《うへ》に接吻《せつぷん》して大声《おほごゑ》に叫《さけ》んだ。
――あたしは癩病《らいびやう》やみぢやないか。
ティウトンの児《こ》はしげしげと視《み》てゐたが、透《す》きとほつた声《こゑ》で答《こた》へた。
――知《し》りません。
さてはわが身《み》を恐《こは》がらないのか、ちつとも恐《こは》いと思《おも》つてゐない。この児《こ》の眼《め》には、あたしの恐《おそ》ろしい白栲《しろたへ》が、御主《おんあるじ》のそれと同《おな》じに見《み》えるのだ。急《いそ》いであたしは一掴《ひとつかみ》の草《くさ》を毟《むし》つて、此児《このこ》の口《くち》と手《て》を拭《ふ》いてやつて、かう言《い》つた。
――安《やす》らかに、おまへの白《しろ》い御主《おんあるじ》の下《もと》へ行《ゆ》け、さうして、あたしをお忘《わす》れになつたかと申上《まをしあ》げて呉《く》れよ。
幼児《をさなご》は黙《だま》つて、あたしを見《み》つめてくれた。この森蔭《もりかげ》の端《はづれ》まであたしは一緒《いつしよ》に行《い》つてやつた。此児《このこ》は顫《ふる》へもしずに歩《ある》いて行《ゆ》く。終《つひ》にその赤《あか》い髪《かみ》の毛《け》が、遠《とほ》く日《ひ》の光《ひかり》に消《き》えるまで見送《みおく》つた。「幼児《をさなご》の御主《おんあるじ》よ、われをも拯《たす》け給《たま》へ。」このかた、かた、いふ木札《きふだ》の音《おと》が、浄《きよ》い鐘《かね》の音《ね》の如《ごと》く、願《ねが》はくは、あなたの御許《おんもと》までも達《とゞ》くやうに。頑是無《ぐわんぜな》い者《もの》たちの御主《おんあるじ》よ、われをも拯《たす》け給《たま》へ。
底本:「定本 上田敏全集 第一巻」教育出版センター
1978(昭和53)年7月25日発行
底本の親本:「上田敏全集 第二巻」改造社
1928(昭和3)年
初出:「三田文学 第四巻第三号」
1913(大正2)
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