くなって、漸く自分たちが国境線の尾根筋に出たことを知った。
巻上がる霧の中にぼんやりと浮ぶ茂倉岳の肩の辺《あたり》を、赤々とうるんだ夕陽が沈んで行く。ロープから解放されて、長い闘争の後の限りない安易に浸りながら、固くこわばったロープを巻き収めつつ、じっと沈んで行く夕日を見つめていると、激しい疲れと同時に何かしら淡い哀愁を覚える。
夜の帳《とばり》は迫っている。短い休息をとると、山の脊に付けられた歩きにくい道について、南へと急ぐ、漸く南ノ耳に辿《たど》り着いた時は、全く夜の闇に閉されて、遂に道を失ってしまった。わずかに標識をすかして見て、これが谷川岳の耳二つだという事は確められても、短い草付と荒れた土肌のために道は消えていた。暫く捜してから諦めると、そこで一夜を明す事に決め、小さな岩陰に三人身体をつけてしゃがみ込む。
ずぶ濡れになった自分たちには、その一夜は楽ではなかった。しかし二人は濡れない上着を持っており、自分は純毛のシャツだったのでかなり助かった。ルックザックの底に残っていたわずかな菓子などを片附けて落着くと、山の歌が誦《くちずさ》まれる。そしてこの登攀《とうはん》の喜びや、心に生々と甦《よみが》える岩の回想を語り合う。やがて激しい疲れにうとうとすると寒さが揺り起す。時たま暗い霧がうすれて月影がにじむ。
こうして一時間おき位に時計を出して見ては、ひたすらに光に焦《こが》れながら、思出多い一夜を過して行った。
翌朝四時うっすらと明け初めると共に直ぐに道を捜し、道の導くままに西黒沢へと下って行った。そして早朝暖い陽を浴びて湯檜曾の温泉へと達し得た。
[#ここから1字下げ]
〔註〕市ノ倉沢側はこの谷川岳東面の岩場の中でも最も大きく、かつ複雑なものであって、興味ある未登攀のいくつかのルートを蔵しており、これからの研究に待つ所大であるが、それについても大体著しい沢(多くリンネ乃至ルンゼであるが)その他の名称を定めておく事は、記録をとる上にも、これから遊ばれる人々にとっても必要な事と思われる。自分は今までの諸記録、殊《こと》に『関西学生山岳聯盟報告』第二号のスケッチマップ、及び『山と渓谷』第九号の黒田正夫氏のものを参考とし、自分たちの観察した所に基いて概念図を作って見た。この中《うち》一ノ沢、二ノ沢、衝立《ついたて》沢の方面は未だ自分の知らない領域であり、滝沢は全く手がつけられていない所である。
奥の壁の中、本沢(ノゾキの沢という呼称はとらない)は下からでは衝立岩の陰になって全く窺う事が出来ない。その左の水のあるリンネは、前記の記録の如く昨年始めて自分たちのとったルートであって、市ノ倉沢の下から眺めると、衝立岩の急峻な左の尾根のすぐ横に、細く暗く真直ぐに割込んで見える特徴のあるリンネを指す。このリンネの左になお凹んだ岩場があるが、それはリンネといわれるよりもむしろ凹んだ壁であって、その一番左に、手前の急峻な尾根に添って長いチムニー状のリンネ(勿論入口まで行かないと解らない)が入っているだけである。なお本沢のリンネに依る登攀も最近試みられた。
[#ここで字下げ終わり]
底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店
2003(平成15)年11月14日第1刷発行
2007(平成19)年8月6日第5刷発行
底本の親本:「山岳 二六の三」
1931(昭和6)年12月
初出:「山岳 二六の三」
1931(昭和6)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出時の表題は「谷川岳東面の岩登攀」です。田名部繁との共著で本編はその第一章で小川登喜男氏執筆のものです。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年6月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
小川 登喜男 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング