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鋭い南風が、音のない霧の波を念丈の頂にたたきつけていた。たそがれのあせた光がその厚ぼったい霧の裏にポッとにじんでいる時刻だ。頂上は寒い。霧は一切の視線を閉鎖している。だれもが疲れ切っているのだ。だのにわれわれの間には、口に表わすのはむしろ無用であるほどの喜びがみなぎっていた。それはなぜであったか。見たまえ。実に須臾《しゅゆ》の間であったが、風の鋭利な刃がしつこい霧の幕をズタズタに引き裂いて、やきつくようなわれわれの目の下にひねくれた片桐松川の水の輝きがあったからだ。苦闘二日のあの惨虐な谷の姿が!
きのう、片桐の部落を離れるころ、澄明な空気は全く熟して、蒼い穹窿《きゅうりゅう》は太陽の送る光のミサに氾濫していた。だのにりっぱな道が尽きて磧に下りついたころには、西南から流れる雲が天壇を隠蔽《いんぺい》して湿った風が狭い谷の中を吹き過ぎるようになった。そして約五時間の後に辛うじて天幕《テント》を張り終わったころ、可憐《かれん》な小品的野営地はもうもうたる雨足の裡《うち》にすっかり屏息《へいそく》してしまったのである。しかし野営地まではともかく道はあった。もちろんこの道は決して登山者の
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