《そうそう》たる渓流の響。闊葉樹林。駒鳥の声。雪渓。偃松《はいまつ》。高山植物を点綴した草野。そして辿《たど》り着いた尾根上の展望。三人はここにルックを投げだして暫《しばら》く楽しい憩いを続けるであろう。
 目近かく仰ぎ上げる頂上を掠《かす》めて、白い雲が飛んでは碧空に吸われるように消える。岩燕が鏑矢のような音たてて翔《と》び交《か》う。
 彼氏は徐《おもむ》ろにポケットから取り出したダンヒルのパイプに、クレーブンミクスチュアをつめる。彼女は、汗ばんだ鼻をコンパクトの鏡に写し了《お》えてから、チョコレートの銀紙をむきはじめる。彼女の投げ出した靴の先の所には岩桔梗《いわぎきょう》が可憐に震えていた。案内者は大きなめんつ[#「めんつ」に傍点]を拡《ひろ》げて、柘楠《しゃくなげ》の枝で作った太い箸《はし》で今朝から第何回目かの食事を初めた。
 真夏の太陽に照らされながらも、山上の空気は和《なご》やかに、彼氏と、彼女と、彼の三人を包んだ。野性と、モダニズムと。食慾と、恋愛と。一切は融け合ってしまった。宥《ゆるやか》に朗らかな風景である。
 彼女は、彼の偉大な食慾を讃嘆しつつ眺めていた。
「あんた! これ食べない?」
 彼は慌《あわ》てて、今|噛《かじ》りかけていたベビーゴルフのボールほど大きい梅漬を、めんつ[#「めんつ」に傍点]の中へ投げ込んで、股引《ももひき》でちょっとこすった手を彼の女の前へ差し出した。彼女はその、汚くよごれて、指節の高く太い彼の掌を、心中で「なんてグロテスクな手だろう」と思いながらその上へ、ポトリと、一個のチョコレートを落し与えたのである。
 彼氏は、北方を指して、あの遠く一塊の白い雲の下にあたる真白いのが立山《たてやま》である事、遥かな西方に淡く浮びあがったのが加賀の白山《はくさん》である事や、長い尾根続きの端に飛び騰《あが》ったような嶺が笠ヶ岳である事や、重畳《ちょうじょう》した波濤のような山々に就いて説明をした。
「ジャンダルムっての、あら素的《すてき》な岩壁ね、アンザイレンしましょうよ! そしてトラヴァースしてみない?」
 彼女はジャンダルクのように宣言した。
「此処《ここ》はお前様《めえさま》たちにゃ危ねえだ」
 彼は言った。が、彼氏は、彼女の希望に対して果断な決心を持ってザイルを解き初めた。
 彼氏の胴から彼女の胴へ、そして彼という順序に鮮
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