《あご》を突出し、両手を膝の上に重ねた。
絶体絶命、モデルの押売、今更|厭《いや》ともいえない。スケッチブックを出して簡単な鉛筆写生、赤いのや青いのやを塗りつける。どうしたはずみか顔がよく似たので、当人よりは両親のほうが大喜びだ。手帳から引き裂いてやる。寒い朝で、池の氷は二寸も厚さがある。戸外は真白な霜だ。前の山に上ると富士がよく見える。雪は朝日をうけて薄|紅《くれない》に、前岳はポーと靄が罩《こ》めて、一様に深い深い色をしている。急いで写生する。
写生が終って、ふと西の方を向くと、木立の間から雪の山がチラと見える。思いがけない、もっと高いところをと見廻わすと、茶屋の後に大きな草山がある、気もそぞろに駈け上る。元より道はない。枯草を分け熊笹の中を押してゆく、足元から俄《にわか》に二つの兎が飛び出す。そんなものには目もくれず上へ上へと進む。汗はタクタク流れる。熊笹は尽きて雑木の林になる。蔓《つた》が絡《から》む、茨《いばら》の刺《とげ》は袖を引く、草の実は外套からズボンから、地の見えぬまで粘りつく。
辛うじてかなりの高所へ出た。栂の根元の草の中に三脚を据える。前に見えるのは悪沢と赤
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