草を踏み、対岸に廻って写生箱を開いた。
 破れかかった家は、水に臨んでその暗い影を映している、水の中には浮草の葉が漂うている。日は山蔭にかくれて、池の面を渉《わた》る風は冷い。半ば水に浸されている足の爪先は、針を刺すように、寒さが全身に伝わる。思わず身慄《みぶるい》するとき、早や池の水は岸近くから凍り始めて、家の影はいつか消え失せ、一面|磨硝子《すりガラス》のようになる。同時にパレットの上の水が凍って絵具が溶けない。筆の先が固くなる。詮方なしに写生をやめた。
 池の茶屋というのは、この冷い水の滸《ほと》りに建てられたるただ一軒の破《あば》ら家である。入口の腰障子を開けて入ると、すぐ大きな囲炉裡がある。囲炉裡の中には電信柱ほどもある太い薪木が燻《くすぶ》っている。上に吊された漆黒な鉄瓶には、水の一斗も入るであろう。突当りは棚で、茶碗やら徳利やら乱雑に列《なら》んでいる、左の方は真暗で分らないが、恐らく家族の寝間であろう、ここでも飴を売るかして、小さな曲物が片隅に積んである。
 おかみさんは盥《たらい》に湯をあけてくれた、凍りきった足にはまたとなく快よい。通されたのは池に面した座敷で、形《
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