丈の上より幾十丈の渓底まで、八十度位い、殆ど直立同様の傾きで、あたかも滝のように、そして僅かの振動にも、石はカラカラと落ちて下りゆくほど勢いは加わり、初めの一つは忽ち十となり百となり千となりて、個々の発する恐しき叫びと共に、絶えず渓を埋めようとしている。五間おきには、小屋くらいある大きな岩が、今にも転がろうと、ただ一突の指先を待っているかのような姿勢で渓を覗《のぞ》いている。何という恐しい光景であろう。
 下草の磨《こす》れているところを、少し斜めに歩を移すと、向うの崖に通ずる一条の道がたえだえに見られる。崩れたところを、僅かの足がかりを求めて踏固めたのであろう。湯島から奈良田へゆく人、奈良田から湯島へ来る人は、この道を急いで通るのであろう。もし道の半ばにして、あの上の大きな石の一つが動いたなら、そのままこの早川渓の鬼とならねばならぬ。
 君子は危うきに近よらずという。私はここから引返そうと思った。虎穴に入らずんば虎児を得ずという。私は前へ進もうと思った。そして奈良田にゆけば雪の山が見えよう。雪の山を見たいという私の欲望は、終にこの危うき道を、三斗の冷汗を流しながらも通過さしたのである
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