粟を入れる。村では少しの麦を加えるそうだが、山上では粟ばかりだという。どんな味かと聞たら、温いうちはよいが、冷えたらとても東京の人には食べられまいという。
 今朝は汁もない、辛い味噌漬二切で食事をすます。
 暫く焚火を囲みながら、天気の模様を見る。
 霧は晴れそうにもない。沢のほとり、林のあたりで、何やら冴えた声で鳥が啼《な》く。うっとりとよい心持になる。歌舞伎座も八百膳も用はない。このまま一生ここにいても悪くはないと思う。が、そうもならない、この霧は昼過ぎにでもならねば晴れまいという。残念だが六万平を思い捨てて湯の宿へ帰ることにした。
 霧の中を下へ下へと急ぐ、急に明るくなって、遠くの山が一角を現わすかと見ると、忽ち暗くなって、すぐ前の林をかくす、歩一歩、早川渓の水声が高くなって、吾らはいつか宗平の家の前に立った。
 俄に雨が降り出したので、洋傘を借りて、霧繁き草道を、温泉へ帰ったのは十時頃であった。
 昨夜帰らないので、宿では迎いを出そうとしたそうだ、しかし宗忠もついているから、たぶん湯島へ泊ったことと、終に見合せたといっていた。
 生温くとも湯に入った心持はわるくはない。

      十七

 九日には曇っていたが、降りそうにもないので、前日見ておいた湯島河原の小流を写そうと思って、九時頃から出かけた。上湯島に渡る釣橋の手前で、河原を少し跡へ戻ると若杉の森があって、その下に細い流れが見える。流れに掩《おお》い冠さっている秋草の色が美《うるわ》しい。ここで縦《ほしいまま》画を描きはじめて四、五時間を送った。
 十日には出発の予定であったが、朝起きて見れば、すさまじき大雨で終に見合わせた、昨夜は満天に星が輝いていたのに、秋の空は頼みがたいものだと思う。
 清かりし湯川の水も濁り、早川は褐色に変って、水嵩《みずかさ》も常に幾倍して凄い勢いであった。
 湯島温泉の長所は、気候の温和なため、秋の紅葉が長く見られること、宿の気の置けぬことなどで、短所は、ちょっと出るにも武装をせねばならぬ不便、郵便のおそきこと、物価の安からぬことなどである。夜に入って大風吹きすさみ、梢《こずえ》を鳴らし枝を振う、紅葉黄葉、恐らくあとかたもなく早川の流に乱れて、遠く遠く南の方に去り、一夜にしてこの渓を冬に化せしめしことならんと思いつつ夢に入る。

      十八

 十一日は、霧の間に所
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