十度なりに僅かずつ平にして、蕎麦《そば》、粟、稗《ひえ》、豆の類を作るので、麦などはとても出来ぬ。もしこの焼木の柵を離れたなら、足溜りがなくて、直立していることは出来ない。山なき国の人は畑は平なものと思っていよう。私もかつてはそう思った一人であった。この辺の人々は、畠は坂になっているものと思っていよう。田もない池もない、早川や湯川や、滝のように流るる姿を見ては、水も恐らく平のものとは考えていないかも知れない。
 焼畑は、その焼灰が肥料となって、三、四年は作物も出来る。それから後はそのまま捨ておいて、十七、八年目に更に同じことを繰返すのだという。
 宗忠は、暮れぬ間に湯島へ往って、今夜の食料を持って来るという。湯島へゆくなら何か駄菓子でも買って来よといえば、そんなものは村にはないという。砂糖でもよいといえば、正月か祭の時ででもなければ誰の家でも持たぬという、なるたけ早く帰りますと言捨《いいす》てて、猿の如く麓を目がけて走り去った。
 秋の西山一帯は、午後三時の日光をうけてギラギラと眩《まぶ》しいように輝いている、常磐木の緑もあろう、黒き岩もあろう、黄なる粟畑もあろうが、それらは烈しき夕陽に、ただ赤々と一色の感じに見える。その明るい中を、トンボの小屋はちょうど山蔭にあるので、クッキリと暗く、あたかも切り抜いて貼《はり》つけたように、その面白き輪廓を画いている。私は兎の係蹄《けいてい》の仕掛けてあるほとり、大きな石の上に三脚を立てて、片足は折敷いて、危うき姿勢に釣合《つりあい》をとりながら、ここの写生を試みた。

      十三

 輝き渡っていた西山も、しだいに影が殖《ふ》えて、肌寒くなって来たので写生をやめ、細い道を伝わって小屋に来た、小屋には宗忠の父なる人がいて、火を燃して私を待っていた。遥かの谷底から一樽の水も汲んで来てくれた。
 小屋は屋根を板で葺《ふ》いて、その上に木を横たえてある。周囲は薄や粟からで囲ってある。中は入口近くに三尺四方ほどの囲炉裡《いろり》があって、古莚《ふるむしろ》を敷いたところは曲《かぎ》の手《て》の一畳半ほどもない。奥の方には岩を穿《うが》って棚を作り、鍋やら茶碗やら、小さな手ランプなどの道具が少しばかり置かれてある。部屋の隅には脂《あぶら》に汚れた蒲団《ふとん》が置いてある。老人はやや醜《みにく》からぬ茣蓙《ござ》を一枚敷いてくれた。
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