は帰れようというので、七日の朝、私は宗平を連れてそこにゆくことにした。
晴れた日であった。写生箱画板など、いささかな荷物を宗平の背に托して、早川に沿うて下流へと歩を運んだ。道もせに咲き残っている紅の竹石花、純白の野菊、うす紫の松虫草などとりどりに美《うるわ》しい。上湯島の少し手前から河原に下りる、山崩れの跡が幾カ所かあった。道は平ではない。早川の水が堰《せ》かれて淵を成すところ、激して飛瀑《ひばく》を成すところ、いずれもよき画題である。長い釣橋を右に見てそれを渡らずに七、八丁もゆくと、黒い黒い杉の森が見える農家の屋根、桑の畑、水車、小流、そこが下湯島の村で、石垣に沿える小道を通って、私どもは宗忠の家に立よった。
下湯島の村は、数年前全戸殆ど火の禍をうけたため、家は皆新しい。上湯島には萱葺《かやぶき》の屋根多きにここは板屋に石を載せて置く。家は小さいが木は多いから、さすがに柱は太い。村というても平地は殆どないが、やや緩《ゆる》やかな傾斜地に麦が作ってある。畑の中には大きな石がゴロゴロしている。家の廻りには鍬《くわ》の把《は》、天秤棒《てんびんぼう》、下駄など、山で荒削りにされたまま軒下に積まれてある。
宗忠は身仕度をして来た、なにか獲物《えもの》もあろうというので一|挺《ちょう》の銃も持っている。
早川を渡ると、すぐ急傾斜の小さな坂で、その上は畑が作られて、麦の緑は浅い。石道をゆき、草の中をゆき、いよいよ雑木茂れる山にかかる。道は落葉に埋められ、今朝おりた霜の白きもあり、融《と》けて濡《ぬ》れたのもある。とかく辷《すべ》り勝ちで足の運びは鈍い。
山の傾斜がいかにも急であるために、道は右に左に細かく縫《ぬ》うてつけられてある。小さな沢を渡って十四、五丁ゆくと、樹は漸く太く、針葉樹も変っている。人の踏むこと少きためと、寒さの早いために、落葉は道を埋めて、二、三尺も積もっている。カサカサと徒《いたずら》に音のみ高くて、泳ぐような足つきでは一歩を運ぶにも困難である。剰《あまつさ》え、二日以来足の痛みは、今朝宿を出た時から常ではないので、この急峻な山道では一方《ひとかた》ならぬ苦痛を覚えた。途中の用意にもと、宿から持って来た「サイダー」を一口二口飲みながら上る。「サイダー」は甘味があり粘りがあって極めて不味《ふみ》だ、かかる時は冷き清水に越すものはない、自然は山人に「
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