では急いでスケッチもした。女阪峠を上る時も片鱗はいく度も見たが、全形を眺むることは出来なかった。
精進《しょうじ》を過ぎ本栖《もとす》を発足《た》って駿甲の境なる割石峠の辺から白峰が見える。霞たつ暖い日で、山は空と溶け合うて、ややともすればその輪廓を見失うほど、杳《はる》かに、そして幽《かす》かなものであった。
二
甲州西山は、白峰の前岳で、早川の東、富士川の西に介在せる、五、六千尺の一帯の山脈である。この峠に立ったなら、白峰は指呼《しこ》の間に見えよう、信州|徳本《とくごう》峠から穂高山を見るように、目睫《もくしょう》の間にその鮮かな姿に接することが出来ないまでも、日野春《ひのはる》から駒ヶ岳に対するほどの眺めはあろう。早川渓谷の秋も美《うるわ》しかろう。湯島の温泉も愉快であろう。西山へ、西山へ、画板に紙を貼《は》る時も、新しく絵具を求むる時も、夜ごとの夢も、まだ見ぬ西山の景色や白峰の雪に想《おも》いを馳《は》せていた。
東京を発足《た》ったのは十一月一日、少し霧のある朝で、西の空には月が懸っていた。中野あたりの麦畑が霞んで、松二、三本、それを透して富士がボーっと夢のよう、何というやさしい景色だろうと、飽《あ》かず眺めつつ過ぎた。小仏《こぼとけ》、与瀬、猿橋、大月と、このあたりの紅葉はまだ少し早いが、いつもはつまらぬところでも捨てがたい趣きを見せていた。
長いトンネルを出ると初鹿野、ここから塩山《えんざん》までの間に白峰は見えるはずだ。席を左に移して窓際に身をピッタリ。
果然、雪の白峰連嶺は、飽くまで蒼《あお》い空に、クッキリとその全身を露わしている。水の垂れそうな秋の空、凍ったような純白の雪、この崇高な山の威霊にうたれて、私は思わず戦慄《せんりつ》した。袂《たもと》にスケッチブックのあることを忘れた。もう西山までゆかなくともよいと思った。
雪の山はトンネルのために、幾度となく隠れ、また現われた。その度ごとに、私は曇ったガラスを拭《ふ》いて、瞬時でも見逃がすまいと眸《ひとみ》を凝《こ》らした。三度五度、ついには全くその姿を失うて、車は大なるカーブを画き、南の方|無格恰《ぶかっこう》な富士の頂を見た時、夢から醒《さ》めたような思いがした。そしてこの時ほど富士山を醜く見たことはない。
十二時半に甲府に着いて、すぐ鉄道馬車の客となった。今に
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