退屈紛れに幾度も湯に入る。浴槽の天井には一坪ほどの窓があって、明放しだから、湯の中に雨が降り込む、入口も明け放しで、渓の紅葉の濡色《ぬれいろ》が美しい。湯に全身を浸している時は馬鹿に心持はよいが、出ると寒くってゾーっとする、も少し熱かったらと残念に思われる。
雨の日や夜分は、便所の通いもいささか厄介《やっかい》である。母屋を離れて細い崖の上を二十間もゆくので、それもあまり綺麗ではない。時としては下駄のないこともある。あっても濡れていて無気味なこともある、夜は往々ただ一つの燈火が消えていて、谷へ落ちはしまいかとおそるおそる足を運ばなければならない。
九
六日には漸《ようや》く晴れた。結束して奈良田の方へ往った。白雲の去来|烈《はげ》しく、少しく寒い朝であった。
早川渓谷の秋は、いまは真盛りで、いたるところの草木の色は美《うるわ》しい。細い細い道を辿ってゆくと、時として杉の林の小暗《おぐら》きところに出る、時として眩《まぶ》しいような紅葉の明るいところに出る、宿から半道も来た頃、崖崩れのために道は絶えた。
見ると四、五十間の広さに、大石小石のナダレをなしている。幾百丈の上より幾十丈の渓底まで、八十度位い、殆ど直立同様の傾きで、あたかも滝のように、そして僅かの振動にも、石はカラカラと落ちて下りゆくほど勢いは加わり、初めの一つは忽ち十となり百となり千となりて、個々の発する恐しき叫びと共に、絶えず渓を埋めようとしている。五間おきには、小屋くらいある大きな岩が、今にも転がろうと、ただ一突の指先を待っているかのような姿勢で渓を覗《のぞ》いている。何という恐しい光景であろう。
下草の磨《こす》れているところを、少し斜めに歩を移すと、向うの崖に通ずる一条の道がたえだえに見られる。崩れたところを、僅かの足がかりを求めて踏固めたのであろう。湯島から奈良田へゆく人、奈良田から湯島へ来る人は、この道を急いで通るのであろう。もし道の半ばにして、あの上の大きな石の一つが動いたなら、そのままこの早川渓の鬼とならねばならぬ。
君子は危うきに近よらずという。私はここから引返そうと思った。虎穴に入らずんば虎児を得ずという。私は前へ進もうと思った。そして奈良田にゆけば雪の山が見えよう。雪の山を見たいという私の欲望は、終にこの危うき道を、三斗の冷汗を流しながらも通過さしたのである
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