もあり得べきはずであるが、今もかのような称呼が存しているや否やを知らない。『関東の山水』の中、野州の山水第二節庚申山の条に左の記事がある。
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なお二、三里ゆけば、大岳山あり、庚申山の繁昌せし頃、そこを奥院としたる由なるが、今は、ゆくものほとんど無しとの事也。社務所には、案内する者なし、こは、他日別に導者をやといて、さぐらむと思いぬ。
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 この大岳山という名は自分もかつて聞いたことがあって、庚申山に連る尾根の最高点鋸山がそれであるように教えられたのであるが、それは誤であって、大岳山は皇海山に外ならぬのであった。皇海山の絶頂三角点の位置から少し東に下ると、高さ約七尺幅五、六寸と思われる黄銅製らしき剣が建ててあって、南面の中央に庚申二柱大神と朱で大書し、其下に「奉納 当山開祖 木林惟一」と記してあり、裏には明治二十六□七月二十一日参詣□沢山若林五十五人と楽書がしてあったのみで、奉納の年月日は書いてなかった。余事ながらこの木林惟一というのはどういう人であるかと、足尾におられた関口源三君に調べてもらったところ、東京の庚申講の先達《せんだつ》であって、この人が庚申山から皇海山に至る道を開き、そこを奥院とした。庚申山中に奥の院はあるが、これはつまり庚申山という一の山に対する奥の院の山という意味であるらしい。同時に松木沢からも盛に登ったものであるという。庚申山からの道は尾根伝いであったか、または一旦松木沢に下りてから登ったものか、松木沢からの道とともに今は全く荒廃して不明であるが、尾根の各峰に地蔵岳、薬師岳、白根山、蔵王山、熊野岳、剣《けん》ノ山、鋸山等の名称が附してあるから、あるいは尾根を通ったものかも知れぬ。連脈の最高点は鋸山で、上野国境に跨《またが》っている。そして庚申山よりは高い。其処《そこ》から展望した所では、尾根の各峰の間はV字形の窓をなして、左右は絶壁らしいから、峰頭をたどる尾根伝いはどうも不可能らしく想われた。百米も下をからめば通れぬ事はあるまい。とに角皇海山にも一時相当に登山者があったもので、その時期は明治の初年頃から二十五年頃までであったらしい。幸か不幸かこの山は、高さに於て遥に庚申山を凌駕《りょうが》しているが、これに匹敵する何らの奇窟怪岩をも有しないことが、信仰の衰えとともに終に登山者を惹《ひ》きつけぬ最大の原因
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