越中劍岳先登記
柴崎芳太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遍《あまね》かられん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)足跡|殆《ほと》んど

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 越中の劍岳は、古来全く人跡未到の劍山として信ぜられ、今や足跡|殆《ほと》んど遍《あまね》かられんとする日本アルプスにも、この山ばかりは、何人《なんぴと》も手を著《つ》け得ざるものとして、愛山家の間に功名の目標となれるが如き感ありしに、会員田部隆次氏は、「劍山|登攀《とうはん》冒険談」なる、昨四十年七月末『富山日報』に出《い》でたる切抜を郵送せられ、かつ「先日山岳会第一大会に列席して諸先輩の講演、殊《こと》に志村氏の日本アルプスの話など、承《うけたま》わり、すこぶる面白く感動|仕候《つかまつりそうろう》、その中に、劍山登り不可能の話|有之《これあり》候に就きて、思い出し候|間《あいだ》、御参考までに別紙切抜き送り候、……なお小生のその後、富山県庁の社寺課長より聞く所に拠《よ》れば、芦峅寺《あしくらじ》にては、劍山の道案内を知れる者有之候えども秘伝として、漫《みだり》に人に伝えず、極めて高価の案内料を貪《むさぼ》りて、稀《まれ》に道案内をなせしことあるのみなりしが、今回の事にて、全くその株を奪われたる事になりしとか申《もうし》候、この記事が動機となりて、今年より多くの登山者を出すを得ば、幸《さいわい》これに過ぎずと存《ぞんじ》候」と言える書翰を附して編輯者まで送付せられたり、(その後辻本満丸氏も、この記事の謄写《とうしゃ》を、他より獲《え》て送付せられたり)聞く所によれば、『富山日報』のみならず、同県下の新聞にも大概出でたる由にて、劍岳を劍山と、新聞屋の無法書きは、白峰を白根、八ヶ岳を八ヶ峰などという筆法と同じく、おかしく感ぜらるれど、ともかくも登山史上特筆する価値あれば、左に全文を掲ぐ(K、K、)

 余は三十六年頃より三角点測量に従事して居ますが、去《さる》四月二十四日東京を発して当県に来る事となりました、劍山に登らんと企《くわだ》てましたのは七月の二日で、先《ま》ず芦峅村に赴《おもむ》き人夫を雇《やと》おうと致しましたが、古来誰あって登ったという事のない危険山ですから、如何《いか》に高い給料を出して遣《や》るからといっても、生命《いのち》あっての物種《ものだね》、給料には易《か》えられぬといって応ずる者がありません、しかし是非とも同山に三角測量を設けざるべからざる必要があるというのは、今日既に立山には一等測量標を、大日山と大窓山には二等測量標を建設してありますけれども、これだけでは十分な測量が出来ませんからで、技術上|是非《ぜひ》劍山に二等測量標の建設を必要とするのであります、前年来|屡次《るじ》登攀《とうはん》を試みましたが毎時登る事が出来ず失敗に帰しましたが、そのために今日では同地方の地図は全く空虚になって居る次第であります、これは我々の職務として遺憾《いかん》に堪えぬ次第で、国家のため死を賭《と》しても目的を達せねばならぬ訳《わけ》であります、そこで七月十二日私は最も勇気ある
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測夫 静岡県|榛原《はいばら》郡上川根村 生田信(二二)
人夫 上新川郡大山村    山口久右衛門(三四)
人夫 同郡同村       宮本金作(三五)
人夫 同郡福沢村      南川吉次郎(二四)
人夫            氏名不詳
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の四名を引率して登山の途に就き、同日は室堂《むろどう》より別山を超《こ》え、別山の北麓で渓を距《へだた》る一里半ばかりの劍沢を称する処《ところ》で幕営し、翌十三日午前四時同地を出発しましたが、此処《ここ》は別山と劍山との中間地で黒部の上流へ落合う渓流が幅三|米突《メートル》ばかり、深さ六、七尺もありました、なおその地方は落葉松《からまつ》等の周囲一丈ばかりもある巨樹、鬱蒼として居ますが幸《さいわい》に雪があったから渡《わ》たれたものの、雪がなかったら危険地でとても渡れないだろうと思います、それより半里ばかり東南の谷間を下り、それから登山しましたが、積雪の消えない非常な急坂がありまして一里ばかりの雪道を約五時間も費やしました、その雪を通過すると劍山の支脈で黒部川の方向に走れる母指との間のような処に出ました、もっともこの積雪の上を徒渉《としょう》するのにどうしても滑りますから鉄製の爪あるカンジキを穿《は》いて登るのであります。
 この積雪地よりは草木を見ず、立山の権現堂《ごんげんどう》より峰伝えに別山に赴く山路の如く一面に花崗片麻岩《かこうへんまがん》にてガサガサ岩の断崖絶壁削るが如く一歩も進む能《あた》わず、引率せる人夫四名の中氏名不詳とせし男は此処より進む能わずとて落伍しました、残りの一行は更に勇を鼓し一層身軽にし双眼鏡、旗、鍋の外《ほか》は一切携帯せずに進むこととなりましたが、その苦しい事は口にも述べられぬほどです。上の方に攀登《よじのぼ》るのに綱を頭上の巌にヒョイと投げかけ、それを足代に登りかけると上の巌が壊れて崩れかかるという仕末《しまつ》で、その危険も一通りや二通りではありません、こんな処が六十間もありましたが、其処《そこ》を登りますと人間のやや休息するに足る場所がありましたからホッと一休みしました、また其処よりは立山の権現堂からフジという処を経て別山に赴くほどの嶮路で花崗片麻岩のガサ岩ばかりであります。かくて漸《ようや》く絶頂に達しましたのは、午前十一時頃でありました、この絶頂は円形のダラダラ坂で約四、五坪もありましょう。むかし何時《いつ》の時代か四尺五尺位の建物でもありましたものか、丁度その位の平地が三ヶ処ばかりありました、しかし木材の破片などは一切見当りません。一行がこの絶頂に於て非常に驚いたのは古来いまだかつて人間の入りし事のないちょうこの山の巓《いただ》きに多年風雨に曝《さら》され何ともいえぬ古色を帯《お》びた錫杖《しゃくじょう》の頭と長さ八寸一分、幅六分、厚三分の鏃《やじり》とを発見したことである。鏃は空気の稀薄なるためか空気の乾燥せる山頂にありしがためかさほど深錆とも見えないが、錫杖の頭は非常に奇麗な緑青色《ろくしょういろ》になっております。この二品は一尺五寸ばかり隔《へだ》ててありましたが、何時の時代、如何なる人が遺《のこ》して去りしものか、槍の持主と錫杖の持主とは同一の人かもし違って居るとすれば同時代に登りしものか、別時代に登りしものか、これらはすこぶる趣味ある問題で、もし更に進んで何故《なにゆえ》にこれらの品物を遺留し去りしか、別に遺留し去ったものでなく、風雨の変に逢うて死んだものとすれば遺骸《いがい》、少くも骨の一片位はなくてはならんはずだが、品物はそのまま其処《そこ》に身体は何処《どこ》か渓間《たにま》へでも吹飛されたものか、この秘密は恐《おそら》くは誰《だ》れも解《と》くものはあるまい、なお不審に堪えざるはその遺留品ばかりではない、この絶頂の西南大山の方面に当り二、三間下に奥行六尺、幅四尺位で人の一、二人は露宿し得るような岩窟がある、この窟の中で何年《いつ》か焚火した事があるものと見え蘚苔《せんたい》に封ぜられた木炭の破片を発見した事である、この外には這松《はいまつ》の枯れて石のようになりたる物二、三本と兎《うさぎ》の糞二、三塊ありしのみである、この劍山の七合目までは常願寺《じょうがんじ》川等にあるような滑沢《かったく》の大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際|降《ふ》り積りしと思わるる岩石のみである、東南の早月《はやつき》川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁でその支峰もいずれも剣を立てたるがごとく到底攀ずる事が出来ない、かくて一行は当日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿営地に無事引上げここに第一回の登山を終った。第二回には三角点測量標を建設せんものをと
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測夫 鳥取県東白郡市勢村 木山竹吉(三六)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(二四)
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その他を率いたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負《お》う嶮山とて機械及材料を運上《はこびあ》ぐる事能わず、止《や》むを得ず四等三角点を建設する事とした。それも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹《た》てたに過ぎない、この接合せるようにしたのは無論運搬が困難であるからであります、立山の高さは不明であります、立山に居りて見れば劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同様の高さかと思わる、立山の高さですか、それは二千五百米突以上という事になっています 云々《うんぬん》



底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
初出:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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終わり
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