し得るような岩窟がある、この窟の中で何年《いつ》か焚火した事があるものと見え蘚苔《せんたい》に封ぜられた木炭の破片を発見した事である、この外には這松《はいまつ》の枯れて石のようになりたる物二、三本と兎《うさぎ》の糞二、三塊ありしのみである、この劍山の七合目までは常願寺《じょうがんじ》川等にあるような滑沢《かったく》の大きな一枚岩であるが、上部は立山の噴火せし際|降《ふ》り積りしと思わるる岩石のみである、東南の早月《はやつき》川方面の方は赤褐色を帯べる岩で、北方は非常の絶壁でその支峰もいずれも剣を立てたるがごとく到底攀ずる事が出来ない、かくて一行は当日午後一時に下山し始め同四時に前夜の宿営地に無事引上げここに第一回の登山を終った。第二回には三角点測量標を建設せんものをと
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測夫 鳥取県東白郡市勢村 木山竹吉(三六)
人夫 中新川郡大岩村   岩木鶴次郎(二四)
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その他を率いたが、二等三角点を設けんとせしも、名にし負《お》う嶮山とて機械及材料を運上《はこびあ》ぐる事能わず、止《や》むを得ず四等三角点を建設する事とした。それも四本を接合せて漸く六尺位になる柱一本を樹《た》てたに過ぎない、この接合せるようにしたのは無論運搬が困難であるからであります、立山の高さは不明であります、立山に居りて見れば劍山の方が高く見えますけれど劍山では立山の方が高く見えます、大抵同様の高さかと思わる、立山の高さですか、それは二千五百米突以上という事になっています 云々《うんぬん》



底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
初出:「山岳 五の一」
   1910(明治43)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
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