はないし、人夫も比較的に閑暇であるから便利だというのである、余分の日子《にっし》と防寒具の用意をして初冬に登るべきである。
 人夫は本年四人を連れていっているから、これだけ案内者を養成した訳である、下折立の星甚太郎、この男は二回登攀している訳である、銀山平の星定吉、この男は熊狩をしているから谷や沢の方は詳しい、以上の二人の中の一人がいれば案内は出来る、大湯温泉東栄舘の桜井次郎は弱年であるから保証はしにくい、藪神村の桜井兼吉は遠方だから予定することは出来まい、序《ついで》にいうが人夫の賃金はこんなに多忙の中でも一日七十五銭であった、しかし閑暇の時だというて安いかどうかは談判して見ないから知らない。
 博文舘発刊の『太陽』第一年第一号に利根川の水源探検記が載っている、自分は多分平ヶ岳に登ったのではあるまいかと考えていたが、利根川の水源は丹後山の東から出ているから、平ヶ岳の絶頂からは尾根伝いに行ったならば、三里以上もあるかもしれない、探検記の著者は山名を明記していないから、勿論臆断ではあるが八海山図幅の無名の 1592 か、丹後山の辺へでも登ったものらしい、さすれば陸地測量部と大林区の役人を除いては、自分が最初(土人は省く)の登攀者だと確信している、いわんや写真や記文は下手ながらこれが嚆矢《こうし》であると考えている。
 これが立山の劍か赤石山ででもあると、非常に天狗になれるかも知らぬが、二千百米突ではそんなに大袈裟にもいわれまい、しかし自分個人としては山数はまだ碌々登って居ぬが、十三の時から三十九の今日までに、自分単独の力で人がまだ行っていない山へ登躋《とうせい》して、それに自分の記文と写真を載せたということは、生来はじめてであるから法螺《ほら》でも自慢でもないが、自分は衷心から珍らしいような嬉しいような感じがするのである、自分としては以後にこんなような事のあるべきはずがないから、これが最初の最後であることは申すまでもない、日本アルプス地方では熊笹の繁茂を見ることが出来ないようであるから、稀にはこんな処へも来て見て戴きたいのである。



底本:「山の旅 明治・大正篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年9月17日第1刷発行
   2004(平成16)年2月14日第3刷発行
底本の親本:「山岳 一〇の三」
   1916(大正5)年5月
初出:「山岳 一〇の三」
   1916(大正5)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※初出時の署名は「高頭義明」
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年2月4日作成
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