降った、絶頂の植物は大略チングルマ、大桜草、白山一華《はくさんいちげ》、南京小桜などで、越後と岩代の駒ヶ岳、燧岳とやや同様の観がある、九時に野宿所を出発して三時十五分に平岳沢と白沢の出合に下った、五時五十分に不動瀑布上の野営地に着いた、もう豪雨が来ても大丈夫だと一同が安心してその夜は熟睡したが、自分は多年の宿望を果したから最も愉快に安眠に耽《ふけ》った。
十九日は六時十五分に出発して、七時半に只見川の出合に達した、ここで荷物の分配や中食の用意などして、九時十五分に只見川を溯りはじめた、一時間弱で右から沢が落ちている、トクサと呼ぶ沢であって檜枝岐から岩魚釣りが来ているそうである、此処《ここ》から檜枝岐までは五里の間道だと称している、十一時に右からタカイシ沢の這入るのを見た、一時に三十滝という奔湍と瀑布を兼ねたような処に来る、三十滝は通行することが出来ぬから、岩壁を登ってその上流に下るとシラツキ沢が左から這入《はいっ》ている、只見川の本流は深緑色をなして緩く流れているが、シラツキ沢は岩石が悉《ことごと》く真白になっていて、淡碧色の水が勢い強く落ちて来る、水を嘗《な》めて見ると少し渋味がある、この沢は降雨の際には渓水がニゴシ(米を洗いたる水)のようになるそうである、燧岳図幅に記してある深沢というのがこの沢らしい、シラツキ沢を少しく登ると木ノ葉石があるというので、人夫が取りに行って来た、二時半に此処を出発して只見川の断岸を登って、一時間ばかり行って只見川を徒渉して西岸を辿った、暫《しばら》く進むと右からマツクラという沢が来ている、マツクラ沢の対岸の岩側が※[#「糸+炎」、第3水準1−90−10]々《たんたん》筋のように見えるから鎧《よろい》グラ(岩の転か)と呼ばれてある、鎧グラの上方を登るのであるが、これからは人夫が詳細な案内を知らない、登ってから水がないと困るから、まだ四時ではあるが此処に野営することにした、人夫が十尾ばかりの岩魚を釣って来て、今夜は岩魚の寝入っているのを捕えて来るというて、頻《しき》りに面桶を入れていた網などを利用して、手網のようなものを製作している、自分は岩魚の寝入っているということを生来はじめて聞いたから、可笑《おか》しくなって吹き出したが彼らは真面目も大真面目でいる、夜になると提燈《ちょうちん》を下げて自分にも同行して見ぬかと勧《すす》めたが、岩魚の寝入っているのも見物したいが夜中に巉岩《ざんがん》を蹈む勇気もなくて行かなかった、小一時間も過ぎると人夫が帰えって来た、明日の仕度もあるから喰うだけ獲て来たというて、四十尾ほど持って来た、なるほど岩魚も寝入るものと見える。
二十日は六時五分に出立した、直に只見川を渉って対岸の岩壁を攀《よ》じるのである、この辺の只見川は水量が多くて、自分のようなコンパスの短いものは殆んど股まで達しる、山側を躋《のぼ》り尽すと高原的の処となるが、闊葉樹林の下に例の熊笹が繁茂していて、展望もなければ歩行も決して楽ではない、山毛欅の大樹に通行者の姓名や時日が記してあるのを栞《しおり》として、熊笹を分けたり蹈んだりして進んで行く、自分は友人の保阪定三郎氏の記名がある樹木を視《み》てすこぶる可懐《なつか》しく感じた、この辺は総て燧岳の裾野である、只見川の本流が懸水をなしている三丈瀑布を瞰下することが出来る、四時半に熊笹が全く絶えて一大曠野に出た、渺々とした茅の中に幾万の黄菅《きすげ》が咲いていて、美観が譬《たと》うるに物なしである、間もなく一小廃屋の前に出た、自分は太早計《だいそうけい》にもここを上州の尾瀬平と思い込んだが、それにしても只見川を踰《こ》えたはずがない、小一時間もうろついてようよう見当が附いた、マツクラから二里ばかり行くと魚釣りの小舎があると聞いていたが、自分も人夫も二里と呼ばれている処を、まさかに朝の六時から十時間もかかって其処《そこ》へ出たとは、最初の中《うち》はどうしても考えられなかった、それから只見川へ出て川を溯って行くと、左の山側に登る路があってそこを登った時には、真暗になって足下も見えなくなって来た、その夜はここに野営して水に遠いので一飯を抜くことにして睡《ね》むった。
二十一日は五時二十分に出発した、路は明瞭な細径となって七時に峠を下った、ここで昨日の夜食と兼帯な朝飯をして九時五十分にこの地を離れた、間もなく尾瀬沼へ出て燧岳の登山口を過ぎて十時五十分に長蔵小屋に着いた、昨年の小屋は岩代の地籍にあったが、本年は上野の地籍に山中としては贅沢過ぎるほどな、旅店風の大家を新築している最中であった、自分はそこから日光の湯本へ向ったが平ヶ岳の紀行はこれで結末とする。
平ヶ岳に登るには初冬の頃がよいと思う、白沢の水量も減じていようし、熊笹や雑木の勢いが夏期のように旺盛で
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