の紀行にぶん廻す、実際この谷あってはじめて平ヶ岳が雄大で、また意味の深いものらしくなるように想われる。
 枝折峠の嶺上を去ると荒沢岳が前面に現われて来る、路は一方下りとなって駒と中ノ岳が右に残雪を光らしている、峠を下り尽くすと銀山平の地となるのである、嶺上から一里五町で北又川に架した橋がある、此処《ここ》を石滝《いしだき》といって銀山平第一の勝地である、元来滝とは奔湍《ほんたん》の意であって瀑布の義がない、ここは奔湍であって瀑布があるのでないから、よく下名したものというべきである、それから平坦地となって所々に人家と耕地がある、石滝から二里ばかりで北又川の一大支流の中又川の出合《であい》となる、中又川の橋を渡ってなお北又川を左に見て行くと、一里弱でこの川が只見川に逢合する、北又川に別れて右折して只見川に沿うて進むこと、三十町弱で浪拝《なみおがみ》の高橋農場に着する、また銀山平の一勝地であって、尾瀬大納言が通行された時に仏陀の奇蹟《きせき》のあった所と伝えられている、標高が約七百米突であって、枝折峠の嶺上から約四時間を要する、高橋農場から二、三町行くと只見川の河傍に温泉が湧出している、銀山平の人々は只見川をアガ川と呼ぶのである。
 自分が銀山平へ着いたのは十五日の午後二時であった、白井はこれから岩魚《いわな》を釣りながら途中まで出迎う意でいたが、馬鹿に早く来たものだと驚いていた、間もなく檜枝岐から人夫が来た、自分はなるたけ同じ道を通ることを避けるのであるから、今度は平ヶ岳を下って只見川の上流から尾瀬沼へ抜ける考えでいた、そこで人夫の経済上からとその路に詳《くわ》しい者を、檜枝岐から雇うことにしてあったのである、ところが白井が依頼して遣《や》った意味が疏通しなかったと見えて、檜枝岐から来た人夫は平ヶ岳で案外時日がかかるので、蕎麦蒔きに遅れるからと断って帰った、白井が百方苦慮してくれたが、只見川から尾瀬沼に行く路に詳しい者がない、人夫の中の星定吉が一度通行した事があるというのを頼みにして、十六日の午前七時にいよいよ平ヶ岳に向うて出発した。
 高橋農場から只見川に沿うて二十町ばかり行くと、往昔銀鉱採掘時代の遺跡である所の、墓場や採掘の場所跡などがある、浪拝と墓場の間には恋岐沢が平ヶ岳から来て只見川に注いでいる、平ヶ岳からこの沢に下ることは出来るが、この沢から平ヶ岳に登ることは不可能であると聞いた、また二十町ばかり行くと大津又川が東から只見川に這入《はい》る、ここから左折して大津又川を溯《さかのぼ》って行くと、その日に会津の檜枝岐に達することが出来て、昨年に自分がその路を通行したのであった、しかし檜枝岐から郵便物を投函すると、九日以上の日数を費さないと銀山平へ到着しないそうである、なお只見川に沿うて上ると灰瀑布がある、只見川の本流が瀑布をなしていて、午後になって日光が瀑布を射るようになると、瀑布の下の深淵から鱒魚が瀑布に向って飛び上る、それが容易に瀑布の上に登ることが出来ない、無数の鱒魚が滔々《とうとう》として物凄《ものすご》く山谷に響きわたって、倒《さか》さに銀河を崩すに似ている飛泉に、碧澗から白刃《はくじん》を擲《なげう》つように溌溂《はつらつ》として躍り狂うのであるから、鱒魚の豊富な年ほどそれだけ一層の壮観であるそうである、鱒魚はかように瀑布と悪戦苦闘を続けて労《つか》れに憊《つか》れて、到底瀑布を登ることが出来ぬと断念して、他に上るべき水路を求めている、人間の猿智慧はこんな山間でも悪用されていて、瀑布の下から瀑布の上に向うて迂回した水勢の緩慢《かんまん》な人工の水路が作られてある、労れた鱒魚はその水路を陸続として登って行く、それを人間が見ていて下の入口を塞《ふさ》いで、上から手網で容易に捕獲するのである、自分がこの瀑布を観《み》た折は午前九時であって、鱒魚は看《み》ることが出来なかったが、瀑布だけでもかなりの壮観であった、鱒魚を捕える漁夫小舎にいた老人が、中食の菜にというので焼いていた鱒魚の一片を自分に贈ってくれた、瀑布から少しく行くとヒルバに達した、これが銀山平の最終の人家である、幾分か時刻は早いのであるがここで中食した、十一時十分にヒルバを出発して山毛欅《ぶな》の大闊葉樹林の中に通じている、岩魚釣りの通路を辿《たど》って行くことになる、県の事業として椎茸《しいたけ》を培養している所がある、熊笹を分けたり小渓を登ったりして二時四十分に只見川に降った、ここをキンセイと呼んでいる、ここから只見川を上って三時十五分に白沢の出合に着いた、此処で荷物を減ずるために米の袋を、降雨や増水があっても流失や湿らぬ用意して置いて行った、只見川に別れて白沢を溯る、徒渉《としょう》というよりは全く川を蹈むのである、約一時間半でその日の露営地と予定してい
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