場に着する、自分らが二十幾年前に片貝の小学校に通学していた頃には、一尺ばかりの作場道であって人家などなかったのが、今は三間余の県道が通じて五十軒ばかりの人家が出来た、新来迎寺駅(魚沼鉄道)の軽便鉄道に搭じて九時三十四分に発車すると、十時十八分に小千谷《おぢや》駅に達する、そこから人力車または馬車で約五里を行くと小出《こいで》町である、小出から爪先上りとなって約三里を行くと、日本第一ラジウム温泉の称ある北魚沼郡湯谷村|橡尾又《とちおまた》温泉に着する、自在舘という家がよいようである、小出から人力車を通ずるが二人引きでないと、時々歩行させられてその効が少ない、温泉は温度が低いが往昔から著名なものである、小出から橡尾又に着く少し前に右に折れて行くと大湯温泉がある、橡尾又まで八町ばかりの距離である、大湯温泉は温度もかなりであるが、設備は橡尾又よりも下等である、東栄舘というのがよい、銀山平へ行く人夫や荷物は、悉皆この東栄舘で世話することになっている、だから高橋農場へ通信するにはこの家に宛《あ》てるのである、橡尾又は温泉宿の外には人家がないから、大湯が湯谷村の奥底の部落である、大湯も橡尾又も名勝も旧跡もないから遊び場所としては、くだらない処である。
 自分は本年の七月十四日に新来迎寺の一番下りに乗って、小千谷から馬車を雇って、小出の須田という旅館で中食した、兼ねて白井から依頼しておいたと見えて、下折立の区長の某が訪問して来て、昨年の十月に大林区の役人に同行した人夫を、明日中に高橋農場まで遣すという意を告げて去った、須田でゆっくりしていたので、夕刻に橡尾又の自在舘へ投宿した、荷物と人夫の都合があるので、自分の従者の渡辺権一を大湯の東栄舘に宿させた、夜になると渡辺が来て、東栄舘の主人が弟を同行してくれと依頼するが如何しようと聞く、承知の旨《むね》を回答した、翌朝の六時に仕度が出来て十分に出立した。
 橡尾又温泉から佐梨川の支流の橋を渡ると、一方登りとなって二里十七町で枝折峠の嶺上に達する、その間には初終駒ヶ岳の白皚々《はくがいがい》たる残雪を有している雄姿を仰いで、すこぶる壮快の感じがする、道は楽ではあるが樹木の影がないから、日中に登るを避けてなるべく早朝に嶺上に達するがよい、温泉から二時間半ばかり費した、ここまでは信濃川の流域であるが、峠から小倉山を経て駒ヶ岳に通じている山脈が分水嶺となって、前面は銀山平即ち阿賀野川の流域となるのである、この峠は大明神峠とも呼ばれている、尾瀬大(中?)納言が讒者《ざんしゃ》のために流罪《るざい》となって、此処《ここ》を過ぎられた時に、大明神が現出されて路《みち》に枝折をされたという伝説がある、この峠を右に登ると五時間ばかりで駒ヶ岳の八合目ともいうべき処のアマ池に出る、それから約一時間四十分で駒ヶ岳の絶巓に至ることが出来る。
 ここで簡単に銀山平の説明をしておく、越後の南と北の魚沼郡の境界で、中ノ岳の南に兎岳というのがある、兎岳の尾根が東に延びて灰ノ又山となって、それから北に行って荒沢岳となって、更に東に延びている、この山脈と中ノ岳、駒ヶ岳の山脈の間を流れているのが、只見川の支流の北又川である、枝折峠から北又川に下ると、川の南方は処々に平地があって、自然の桑樹があるから昔しから養蚕期になると、この山間で養蚕をしていたらしい、北又川が只見川と出合うてから、只見川の上流に行くと、川の西方にも平地が処々にある、それが大略五、六里以上も続いている、その平地を総称して銀山平と呼ぶのである、会津藩の頃には只見川の上流で銀鉱を採掘してかなり盛んであったらしい、近年にこの平の開墾事業が起って、各所に人家が出来たが、日本でも有数な越後平野で成長した人から見ると、平どころの話しでなく、てんで人の棲《す》む処《ところ》でないらしく考えられるので、移民が尠《すく》ないらしい、甲州の野呂川谷などから見ると非常に美事《みごと》な処である、会津方面の大平野を知らない山間の貧民を優待して開墾させるに限ると思う、自分は平野地で生活が出来なくなったら、この谷へ引込んで、養蚕で米代を取って、蕎麦や粟の岡物で補うて、小出方面で蕨《わらび》や蕗《ふき》がなくなる頃に、蕨や蕗がこの谷では盛んであるから、それを小出の町へ売出したりする気である、まだ棲めばいくらも収入を見出す事が出来ると思う、呉服屋が来るではなし、菓子屋が来るではないから節倹は思うままに出来る、汽車が通って石炭臭い処に蠢々《しゅんしゅん》していないで、こんな処で暢気《のんき》に生活しようとする哲人が農家に尠ないものと見える、村会議員や郡会議員になって、愚にも付かない理屈を並べている者から見ると、どんなに気が利《き》いていて気楽で国益になるか知れない、大気焔はこの位で切り上げて、舞台を平ヶ岳
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